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  • 高木兼寛という人がいた 19

    第2章 森林太郎・鷗外の点と線2

    鷗外の生地島根県津和野町の旧藩校養老館跡の敷地内にある遺言碑(令和7年4月撮影)
    東京都三鷹市禅林寺の境内にある鷗外の遺言碑(令和7年6月撮影)

    前回、謎多き人森林太郎・鷗外の主だった謎を7つほど挙げ、3つまでを見ました。引き続き、残りの4つを見てみます。

    4.遺言で「墓は森林太郎墓のほか一字も彫るべからず」「宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請ふ」と遺言したのはなぜか。

    上の写真は、島根県鹿足郡津和野町の旧藩校養老館跡の敷地内にある鷗外の遺言碑、そして東京都三鷹市の禅林寺の境内にある鷗外の遺言碑です。

    鷗外の遺言はこのように石碑に刻まれたり、文庫本に採録されたり、まるで鷗外の一つの作品のように扱われて来ました。他の作家で遺言がこのように扱われている例はほとんどないのではないでしょうか。

    「墓は森林太郎墓のほか一字も彫るべからず」この時代、墓には生前の功績や位階、法号などを彫るのが一般的でした。林太郎の場合、従二位・勲一等・医学博士・文学博士・陸軍軍医総監・帝室博物館総長兼図書頭、等々。法号は貞献院殿文穆思斉大居士。そして何よりも「森鷗外」という燦然たるペンネーム。こうしたものを一切排除して、ただ森林太郎墓とのみ彫れ、という。そして「宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請ふ」という。

    ここには何か穏やかならぬ、激しいものを感じます。静かに死を迎える、自然な流れに身を委ねる、というのではなく、何かを公けに宣するような、また何かを断ち切るような、切迫した響きを感じます。だからこそ、後世の人々は鷗外の遺言にただならぬものを感じ、解き明かされぬ謎として、石碑に残し、文庫本に採録して来たのでしょう。

    鷗外の遺言については、また後で考察します。

    5.死の直前「馬鹿らしい! 馬鹿らしい!」と叫んだのは何なのか。

    林太郎・鷗外は大正11年(1922年)7月9日に亡くなるのですが、遺言を親友賀古鶴所(かこつるど)に口述したのは亡くなる3日前の7月6日。8日には危篤状態になります。その危篤状態に陥る直前に、林太郎は大声で「馬鹿らしい! 馬鹿らしい!」と叫んだというのです。病床にいた伊藤久子看護婦が以下のように記しています。

    意識が不明になつて、御危篤に陥る一寸前の夜のことでした。枕元に侍してゐた私は、突然、博士の大きな声に驚かされました。

    「馬鹿らしい! 馬鹿らしい!」

    そのお声は全く突然で、そして大きく太く高く、それが臨終の床にあるお方の声とは思はれないほど力のこもつた、そして明晰なはつきりとしたお声でした。

    「どうかなさいましたか。」

    私は静かにお枕元にいざり寄つて、お顔色を覗きましたが、それきりお答えはなくて、うとうとと眠を嗜むで居られる御様子でした。

    『家庭雑誌』第8巻11号(大正11年11月1日、博文館)伊藤久子「感激に満ちた二週日 文豪森鷗外先生の臨終に侍するの記」

    林太郎・鷗外にとって、「遺言」が公けに宣する最後の仕事だったとすれば、この「馬鹿らしい! 馬鹿らしい!」は最後の仕事を成し遂げた後の、私的な本音の発露だったかもしれません。伊藤看護婦が「臨終の床にあるお方の声とは思はれないほど力のこもつた、そして明晰なはつきりとしたお声」と記していることから、うわ言ではなく、林太郎は最後の力を振り絞って、意識的に発したと思われます。

    林太郎・鷗外は何をもって馬鹿らしいとしたのか。本人でなければ分からないのは言うまでもないことですが、林太郎・鷗外の人と人生をどうとらえるか、鷗外という“現象”をどうとらえるか、によって、この解釈は分かれて行くのだと思います。

    6.袴をはいて臨終を迎えたのはなぜか。

    林太郎・鷗外が袴をはいて臨終を迎えたことは、複数の人の証言が残っています。

    鷗外よりも30歳ほど年下の小説家、随筆家の小島政二郎は

    大正十一年七月九日午前七時、先生は六十一歳でこの世を去られた。その時、先生は袴を穿いていられた。死ぬ時、袴を穿いていた人は、この年になるまで私は先生以外見たことがない。右の手で、帯で一段高くなっているところを袴ごとグッと握って、先生のそれが癖の、ちょいと首をかしげたままの見慣れた姿勢で、本当に眠っているように息が絶えていられた。(『鷗外荷風万太郎』小島政二郎 文藝春秋新社)

    鷗外を生涯師と仰いだ永井荷風は、鷗外危篤の報せを聞いて鷗外宅「観潮楼」に馳せ赴きます。

    我はひらき戸の傍に坐し、一礼してのち打騒ぐ心やうやうに押静めて見まもれば、森先生は袴をはき腰のあたりをしかと両手に支へ、掻巻を裾の方にのみかけ、正しく仰臥し、身うごきだもしたまはず、半口を開きて雷の如き鼾(いびき)を漏したまふのみなり。我は長居するもいかがと、重ねて礼拝して後、看護の人々にも一礼して、病室を出でしに、~(『鷗外先生 荷風随筆集』中公文庫所収の「七月九日の記」より)

    このように、林太郎・鷗外が袴をはいて臨終を迎えたことは事実のようです。

    小島政二郎が言うように、袴をはいて死を迎える人はいません。袴をはいて死を迎えるのは切腹の時。これは侍の名誉ある死の迎え方なので袴を穿きます。とすると、林太郎・鷗外は自分の死を切腹ととらえていたのか。あの苛烈な遺言も、言葉による一種の切腹と見なすことも出来なくはない。

    これは突拍子もない考えではなくて、当時からこのような鷗外切腹説は一部あったようです。

    もし、この鷗外切腹説が正しいとすれば、なぜ林太郎・鷗外は切腹しなければならなかったのか。どうしてこのような形の切腹となったのか。そして侍の切腹であれば、私たちはそれをしっかりと見届けなければならないし、それが林太郎・鷗外の願いだったことになります。

    7.林太郎・鷗外の著作物全体に渡って“冤”の文字が頻出するのはなぜか。私が見つけただけで、36回。

    林太郎・鷗外の著作物には“冤”の文字が頻出します。私が見つけただけで36回なので、もし鷗外の全著作物をデータベース化して検索をかければもっと多く見つかるでしょう。

    現時点で私が見つけた“冤”は下のリストの通りです。

    このリストでいくつかのことに気付きます。

    1.鷗外デビュー作の『舞姫』に既に“冤罪”の語が出ている。

    2.“冤”の文字は小説だけでなく、評論や日記、医学論文などにも登場する。鷗外訳『即興詩人』 の表紙裏の例言(凡例)にまで“冤”の文字が登場。                                                                          

    3.“冤”という重い語を使わないでも済むような場面、単に「誤解」と言えば済むような場面にも“冤”の語を使っている。

    こうしてみると、林太郎・鷗外はよほど“冤罪”すなわち濡れ衣ということに敏感になっていると言えます。「冤罪だ、冤罪だ」と訴えているように見えます。

    林太郎・鷗外が使った“冤”を含む語句を上のリストからピックアップすると、

    「冤罪、雪冤、冤を雪(そそ)ぐ、洗冤、冤を洗う、冤を鳴らす、冤枉、冤屈、冤を被せる、冤を負う」

    およそ文学史に名を遺す古今の作家で、これほどまでに“冤”の文字を使った人が他にいたでしょうか。おそらく、その生涯の文筆活動で一度も“冤”という文字を使わなかった人の方が大半だと思います。そんな中で、林太郎・鷗外の36回は、やはり異常と言える多さです。

    以上、森林太郎・鷗外の謎の主だったものを7つ見て来ました。改めて林太郎・鷗外の謎を並べて見てみると、謎同士の間に関連が見え隠れし、林太郎・鷗外の人と人生がおぼろげながら浮かび上がって来る気がします。

    これから少し詳しく林太郎・鷗外の歩みをたどり、これらの謎の背後にあるものに迫って行きたいと思います。

  • 高木兼寛という人がいた 18

    第2章 森林太郎・鷗外の点と線 1

    沙羅の木

    褐色(かちいろ)の根府川石に

    白き花はたと落ちたり、

    ありとしも青葉がくれに

    見えざりしさらの木の花

    写真は東京都文京区の森鷗外記念館の庭を囲む壁に据えられた『沙羅の木』の詩碑です。

    『沙羅の木』は鷗外の晩年の詩の一つ。

    (試訳)褐色の根府川石(ねぶかわいし)の上に 白い花がはたと落ちた

    青葉に隠れて そこに有ったとは見えなかった 沙羅の木の花

    リズム感のある美しい詩ですが、

    鷗外は、目の前で起こった落花のシーンを写実的に詠っただけなのでしょうか。

    森林太郎・鷗外をずっと追い続けてきた私には、これは単なる写実の詩とは思えません。

    白い沙羅の花は、落ちて初めてその存在がわかった。

    それまでは、青々と茂った葉に隠れて見えなかった。

    白い花は何か。

    茂った青葉は何か。

    果して私たちには白い花の存在が見えているのでしょうか。

    前景の茂った青葉しか見えてないのではないでしょうか。

    森林太郎・鷗外は謎多き人です。

    謎の主だったものをいくつか並べてみます。 

    1.鷗外はデビュー作『舞姫』で、なぜ主人公太田豊太郎をあれほど卑劣な男に描いたのか。

    2.鷗外はなぜ“切腹” “自決”を多く取り上げたのか。

    3.鷗外の作品で自己犠牲や貞節の美が頻出するのはなぜか。

    4.遺言で「墓は森林太郎墓のほか一字も彫るべからず」「宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請ふ」と遺言したのはなぜか。

    5.死の直前「馬鹿らしい! 馬鹿らしい!」と叫んだのは何なのか。

    6.袴をはいて臨終を迎えたのはなぜか。

    7.林太郎・鷗外の著作物全体に渡って“冤”の文字が頻出するのはなぜか。私が見つけただけで、36回。

    これらの謎をもう少し詳しく見てみます。

    1.鷗外はデビュー作『舞姫』で、なぜ主人公太田豊太郎をあれほど卑劣な男に描いたのか。

    ドイツ留学中の太田豊太郎は、日本帰国後の栄達と恋人エリスとの愛のどちらを選ぶかを迫られ、帰国を選んでしまう。しかしその罪悪感に苛まれ、厳冬の街をさまよい歩きエリスの家に帰ったところで意識を失う。その間に親友相沢が豊太郎帰国のことをエリスに告げ、既に妊娠していたエリスは「我が豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺きたまひしか」と逆上して狂を発し完全に精神が崩壊してしまう。意識の戻った豊太郎はエリスを置いて日本に帰国。帰国を選択したことをエリスに告げた親友相沢を憎む心を今なお一部持ち続けている、という結末。

    『舞姫』― あまりに有名な鷗外デビュー作。遠いヨーロッパの文物、こがね色の髪のドイツ人女性との悲恋、日本人留学生の西洋での生活を、典雅な文語体で描き、明治開化期の日本で大変な評判を呼びました。

    ただ、主人公豊太郎の身の振り方には当時も今も批判があり、鷗外はなぜもっとうまいプロットを提示できなかったのでしょうか。主人公豊太郎と林太郎は、重なる部分ももちろんありますが、林太郎の留学時代の実在の恋人エリスは、妊娠もしていなければ、精神の崩壊もありません。林太郎を追いかけて横浜まで来たエリスのことを、林太郎の妹の小金井喜美子が『森鷗外の系族』に書いていますが、こちらが拍子抜けするぐらいあっけらかんとした女性という印象です。エリスは林太郎の弟や妹婿と会い、東京観光を満喫して、林太郎本人にも見送られながら横浜から帰国しました。

    鷗外は、自分も主人公豊太郎と同じように卑劣な男と思われるかもしれない、という危険性は十分わかっていたはずです。なのになぜ敢えて豊太郎を卑劣な男に描いたのか。そこに何か意図があったのか、なかったのか。

    2.鷗外はなぜ“切腹” “自決”を多く取り上げたのか。

    鷗外はその作品の中で切腹や自決を多く取り上げています。明治天皇の大葬の日に乃木希典夫妻が自決し、そのわずか5日後に鷗外は『興津弥五右衛門の遺書』の初稿を出版社に寄せています。その後、『阿部一族』『大塩平八郎』『堺事件』などいずれも切腹や自決を題材としたものを立て続けに発表しています。これらは乃木夫妻の自決に触発されたものだと言えますが、実は乃木夫妻の自決の前に成った作品にも切腹に言及したものがあります。『妄想』(明治44年)の一節に

    西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云っている。自分は西洋人の謂う野蛮人というものかも知れないと思う。そう思うと同時に、小さい時二親が、侍の家に生まれたのだから、切腹ということが出来なくてはならないと度々諭したことを思い出す。その時も肉体の痛みがあるだろうと思って、その痛みを忍ばなくてはなるまいと思ったことを思い出す。そしていよいよ所謂野蛮人かも知れないと思う。しかしその西洋人の見解が尤(もっと)もだと承服することは出来ない。

    とあります。鷗外の中には随分前から切腹に対する思いがあり、それが乃木夫妻自決に触発されて一気に表に出て来たと言えるでしょう。とすれば、鷗外は乃木夫妻自決に何を見たのか。そして鷗外の中のどの部分が触発されたのか、が問題になります。

    3.鷗外の作品で自己犠牲や貞節の美が頻出するのはなぜか。

    林太郎はドイツ留学から帰国してすぐの帰朝演説の中で、脚気対策としてタンパク質豊富な洋食を推奨する髙木兼寛のことを当てこすって「ロウスビーフに飽くことを知らざるイギリス流の偏屈学者」と呼び、白米至上主義を唱えて、海軍の兵食改革に異を唱えました。しかし、陸軍は日清・日露両戦争でおびただしい数の脚気犠牲者を出してしまいます。

    その頃、ヨーロッパでは脚気研究が一歩一歩進み、ついにビタミン学説が登場します。海外の最新の医学情報に常に注意を払っていた林太郎がそれを知らなかったはずはなく、みずからの白米至上主義が日清・日露戦争時の脚気惨事を引き起こした大きな要因の一つだった可能性に気付いていたはずです。

    一方、林太郎の分身である小説家鷗外は『山椒大夫』の安寿や『最後の一句』のいちの、心に秘めた自己犠牲の精神を描き、『安井夫人』のお佐代、『じいさんばあさん』のるん等を通して貞節の美を謳い上げています。

    脚気惨事の責任を問われるべき林太郎と崇高な自己犠牲や貞節の美を称揚する鷗外。このギャップはどう考えたらいいのか。そこまで徳義を重んじる鷗外であれば、脚気惨事に対する何らかの自責の念の表明があっても良いのではないか。鷗外は偽善者だったのか。小説世界の中で崇高な精神を描くことで、現実世界の罪過を覆い隠そうとしたのか。そういう疑念も湧いて来ます。

    (長くなりましたので、この回はここまでにして、続きは次回に回します)

  • 危機管理に奮闘した偉人―高木兼寛没後100周年

    若き日の髙木兼寛(イギリス留学時代)

    一昨日、令和2年(2020年)4月13日は、ちょうど髙木兼寛没後100年でした。

    髙木兼寛(かねひろ)、知る人ぞ知る明治・大正期の偉人で、日本帝国海軍軍医総監、「ビタミンの父」「日本疫学の父」とも呼ばれています。

    髙木兼寛の功績を記念して、イギリスの南極地名委員会が南極大陸のある岬を“高木岬”(Takaki Promontory)と名付けたことを知っている人はほとんどいないでしょう。

    実は私もほんの5,6年前まで全く知らなかったのです。

    高木岬の命名は1950年代だったのですが、最近になってようやく、日本の小・中学校で使われる地図帳に高木岬の名前が載るようになったとのことです。

    ビタミン発見に貢献した先人たちを顕彰するために、ビタミンの命名者Funkやノーベル賞受賞者Eijkmanらとともに、髙木兼寛にちなんだ地名が付けられたのでした。

    今、私達は新型コロナウイルスの脅威にさらされていますが、明治・大正の頃、日本は原因不明の死病脚気(かっけ)に苦しめられていました。

    海軍の練習艦『龍驤(りゅうじょう)』が太平洋への練習航海を行った時、乗組員378名中169名が脚気にかかり、23名が亡くなりました。

    死亡者数を患者数で割った致死率13.6%。

    また、死亡者数を乗組員数で割った死亡率は6.1%。

    練習のための航海をするだけなのに、100人に6人は脚気で死ぬのです。

    海軍軍医で海軍病院の院長だった髙木兼寛は強い危機感を抱きます。

    時代は弱肉強食の帝国主義時代で、日本は欧米列強の脅威に立ち向かうだけでなく、脚気という内側の敵とも戦わなければならない状況でした。

    兼寛は難病脚気を克服するために、過去の記録を精力的に調査し、ついに脚気は食事に関係があることを突き止めます。

    炭水化物に比してタンパク質が極端に少ない時、脚気が発生することに気付いたのです。

    その確信に基づいて兼寛は海軍上層部に兵食改革の必要性を説きますが、上層部は懐疑的でした。

    ますます焦燥感に駆られた兼寛は、有力政治家や大蔵省とみずから交渉して、実験航海の実現にこぎつけます。

    そこに至るまでの兼寛の気迫、情熱、使命感。

    失敗したら切腹、ということまで兼寛は覚悟しました。

    そして・・・

    炭水化物とタンパク質の比率を考慮した練習艦『筑波』による実験航海は、脚気死亡者を全く出すことなく、大成功を収めたのでした。

    こうしたことについて兼寛は英語で論文を発表し、栄養と病気の関係に注目する学者が次第に増え、それが一大潮流となって、のちのビタミン発見へとつながって行くことになります。

    そのため兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるのです。

    それにしても、もしあの時、兼寛が高く厚い壁の前に心が折れて引き下がっていたら、あるいは「俺の知ったことか!」と投げやりになっていたら、

    やがて来る清国やロシアとの、国の命運をかけた戦いの時、日本はどうなっていたでしょうか。

    良くも悪くも、今の日本はなく、別の姿になっていたと思います。

    さて、こうした兼寛の目覚ましい働きは、実は当時の日本では、海軍を除いて、ほとんど認められませんでした。

    当時の日本は官学としてドイツ医学を採用していたのですが、ドイツ医学はコッホに代表されるように、細菌学において世界の最先端を行っていました。

    難病脚気も細菌による伝染病の一種と考える医学関係者が多かったのです。

    しかも、兼寛の「炭水化物とタンパク質の比率が脚気の原因である」という説には、理論的な裏付けがない。

    いわゆる“学理”がない、ということで蔑視されたのです。

    更に、兼寛が推奨した麦飯に関して、麦と白米の吸収率を見た時、麦の方が吸収率が悪いので、麦飯よりも白米のタンパク質の方が吸収量が多くなるということで、兼寛の説は矛盾していると指摘されます。

    このような批判は非常に鋭いものがあり、兼寛は反論できないようでした。

    こうした批判は一見もっともなように見えますが、しかし、大きなものが欠落しています。

    それは、麦飯によって実際に脚気が激減しているという現実です。

    炭水化物に対するタンパク質の比率を上げると確かに脚気が治り、予防することもできるという現象が厳としてあるのです。

    兼寛の説が間違いだとしたら、ではそうした現象をもっとうまく説明する説を見つけ出そうとするのが次の一歩ではないのでしょうか。

    それが、科学の進展というものでしょう。

    さすがに、科学の歴史の長いヨーロッパの学者たちが一歩一歩学説を進めて行き、ついにビタミン学説にたどり着きます。

    脚気はある微量の物質の欠乏により起こり、その物質をビタミンB1と呼んだのでした。

    このビタミンB1はなぜかタンパク質との共存率が高く、タンパク質を多く含む食材を摂れば自然とビタミンB1を摂ることになり、兼寛の言う通り、炭水化物に対するタンパク質の比率を上げれば脚気は治ります。

    つまり、兼寛の説は、医学的な理論としては正解から外れていましたが、医療的な“処方”としては、十分有効だったことになります。

    ここに、医学と医療の役割の違いを見ることができます。

    兵士の健康管理を預かる現場の軍医としてはそれで十分だったのであり、兼寛の実績は学術的な追究のための良質な材料を提供した格好だったのですが、当時の日本の学者達、特にドイツ医学派の学者達は兼寛の説に対する批判に終始し、兼寛が提示したせっかくの材料を活用することはできませんでした。

    このドイツ医学派の中に森林太郎がいました。

    陸軍の若き軍医で、東大医学部を最年少で卒業。ドイツに留学し、コッホの研究室にも在籍しました。

    イギリス医学派の海軍軍医髙木兼寛に対して、林太郎はドイツ医学派、陸軍医務局の切り札のような役目を背負わされていたと言えます。

    ドイツ留学中にも、林太郎は日本からの便りで髙木兼寛の動向を知らされていました。

    そして、ドイツ留学を終えて日本に帰って来た林太郎。

    帰朝講演の中で、林太郎は「兵食をタンパク質の豊富な洋食にすべき」という兼寛の説に対して反論を加え、兼寛のことを当てこすって「ロウスビーフに飽くことを知らざるイギリス流の偏屈学者」と呼んでしまいます。

    おそらく、会場を埋めていたドイツ医学派の聴衆から大きな歓声と笑いが上がったことでしょう。

    林太郎としては、ドイツ医学派・陸軍医務局の切り札としての自分の立ち場を自覚していたでしょうから、聴衆に対するリップサービスの意味もあったと思います。

    しかし、この嘲笑的な集団心理がこの後のドイツ医学派の歩みを、とりわけ林太郎自身の歩みを、苦しいものにして行くのです。

    のちに髙木兼寛が南極大陸にその名が刻まれるほどの人物になるとは、誰もこの時点では想像できなかったでしょう。

    人生とは恐ろしいものであり、謙虚さは相手を敬うことでもあるけれども、何より自分を守ることでもある、ということを感じて、ひやりと身が縮む思いがします。

    晩年の髙木兼寛。散歩の途中でしょうか。
    もはや現代人には失われた明治人の“風格”を感じさせる写真
    (宮崎市役所高岡総合支所内 髙木兼寛展示コーナー写真より)

    この後もドイツ医学派vsイギリス医学派、陸軍vs海軍の対立構造は解消することなく、日清・日露の両戦争に突入して行きます。

    髙木兼寛の奮闘によっていち早く脚気問題を片づけていた海軍とは対照的に、白米至上主義のドイツ医学派が医務局を占めていた陸軍は、日清戦争で約35,000名の脚気患者、約4,000名の脚気死亡者、日露戦争で約211,600名の脚気患者、約27,800名の脚気死亡者を出します。

    信じられない数字ですが、こうした事態は避けることはできなかったのでしょうか。これは必然だったのでしょうか。

    暗澹たる気持ちにさせられます。

    後世の私達は必ずやここから何かを学び取らなければいけないでしょう。

    それが悲運の先人たちへのせめてもの弔いだと思います。

    さて、森林太郎は日清・日露の両戦争に軍医として出征します。

    脚気で次々に倒れて行く兵士を軍医として看て、何を思ったか。

    一方で森鷗外として『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』など、また乃木将軍の自刃を機に、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『渋江抽斎』等を発表します。

    まさに文豪として確固たる地位を占めていくのですが、ここで誰でも疑問に思うでしょう。

    鷗外すなわち林太郎はそうした名作を生みながら、あの脚気問題から完全に自由だったのでしょうか。

    あれほどの惨事を、もちろん一人で引き起こしたわけではありませんが、やはりかなりの部分で責任を問われるべき林太郎は、文豪鷗外としての自分と、軍医としての自分の両方をどのように折り合いをつけていたのか。

    折しも、ヨーロッパでビタミン学説が誕生し、様々な文献の中で、Kanehiro Takaki(髙木兼寛)の業績への言及が目立って来ます。

    それを見て、林太郎の心の中にどんな思いが生じていたでしょうか。

    そういった問題意識を持って、それこそ紙背に徹するほどの眼光をもって、鷗外の数々の作品を読んで行くと、実はたくさんの謎が作品群に散りばめられていることに気付きます。

    その、点のような一つひとつの謎を線で結んで行った時、思いも寄らぬ鷗外像が現れて来ます。

    私達が普通に使う“文豪”の意味とは次元の全く異なる意味での“文豪”鷗外が現れて来ます。

    明治日本という文明史的に稀有な時代に必然だった一つの役割を、自らの運命として引き受けて、最後の遺言で完結させるまで生き抜いた林太郎・鷗外。

    今年(令和2年、2020年)は髙木兼寛没後100年だったのですが、2年後には鷗外没後100年が来ます。

    今、「鷗外学」は新しい段階へと進む時期に来ているのではないでしょうか。

    林太郎・鷗外もそれを100年の間、待っていたと思います。

    ちょうど、『雁』のヒロインお玉のように。

    (初出2020年4月 一部修正)

    晩年の森林太郎・鷗外。
    文豪としての名声、陸軍軍医総監という輝かしい業績とは結び付かない孤独と苦悩を感じさせる写真。
    文豪鷗外はその作品の深奥に何を秘めたのか

  • 高木兼寛という人がいた 17

    次に、「脚気をめぐる髙木兼寛とドイツ医学派の対立」の表の③白米至上主義の森林太郎について見てみます。

    森林太郎―

    夏目漱石と並び称される明治・大正期の文豪森鷗外。和・漢・洋の古今の文芸に通じ、格調高い文体、豊かな学識、深い人間理解で、『舞姫』『阿部一族』『澁江抽斎』等、数多くの名作を残し、後世の文学者や思想家に大きな影響を与えて来ました。その影響は今なお様々な形で続いていると言っていいと思います。

    一方、森林太郎は陸軍の軍医だったのであり、脚気問題に関してこれまた決して小さくない役割を担っています。

    陸軍医務局の切り札としてドイツに留学し、帰国後、海軍の髙木兼寛の対抗馬として、兼寛の脚気栄養バランス説に対して白米至上主義を打ち出しました。しかし、日清・日露戦争で陸軍兵士のおびただしい数の脚気犠牲者を目の当たりにします。

    のちに文豪“森鷗外”となって行くほどの知性と感受性をもった森林太郎が、こうした事態に何も感じなかったとは考えられず、そういった眼で森鷗外の数々の作品を見て行った時、思いもよらぬ鷗外像が現れて来ました。

    私は、10年以上前に髙木兼寛という郷土の偉人について初めて知り、その業績と人物に驚嘆。このブログのシリーズを書き始めたのですが、その時に、意外にもあの森鷗外が脚気問題に関係していることを知りました。髙木兼寛についてこのブログを書き継いでいる間も、鷗外のことを並行してずっと追い続けて来ました。

    振り返ると、私の中で森鷗外像が10年という時間の経過とともに変わって行き、正直なところ、今となっては最初の頃のイメージとは完全に変わってしまっていることに、しみじみと思うところがあります。これほどのイメージの変容は他の作家ではあまり経験したことがありません。

    もちろん、これからも変わっていく可能性はありますが、今現在の私の森林太郎・鷗外像と、そうした林太郎・鷗外像がどのようにして私の中で醸成されて行ったかについて、お伝えして行きたいと思います。

    話が長くなりそうなので、先に結論めいたことをいくつか記します。

    ○鷗外の文学に現れる様々な謎は、脚気問題を抜きにしては理解できないこと。それは、鷗外最大の謎である「遺言」についても同じ。

    ○鷗外没後100年を過ぎた今、ようやく鷗外理解の機が熟したのであり、鷗外もそれを待っていたこと。

    ○そして兼寛と同様、鷗外もまた、国を想うサムライだった・・・

    髙木兼寛批判の急先鋒だった森林太郎に対して、このような判断をするのはどうか、と思われる方もおられるでしょう。私も当初はそうだったのです。しかし、林太郎・鷗外について深く調べて行くうちに、私の鷗外理解の深化の過程で何度かのターニングポイントがあり、認識が改まって行きました。

    このブログが終わる頃、私が体験した鷗外像変容と同じような体験を新たにされる方が出て来られるだろうと思います。

    これから「第2章 森林太郎・鷗外の点と線」と題して、林太郎・鷗外の歩みを追って行きたいと思います。

    晩年の森林太郎・鷗外

    文豪としての名声、また陸軍軍医トップである軍医総監という輝かしい業績とは結び付かない、苦悩と孤独を感じさせる写真

    そして鷗外の作品全体に渡って散りばめられた数々の謎

    それら点と点を線で結んでいった時、どんな鷗外像が現れるのか。文豪鷗外はその作品の深奥に何を秘めたのか―

  • 高木兼寛という人がいた 16

    髙木兼寛についていろいろ調べていく中で、東京慈恵会医科大学名誉教授の松田誠氏の一連の文章から多くのことを学んでいますが、その中に『髙木兼寛とビタミン』という文章があります(インターネットで見ることができます)。初めてこの文章を読んだときの鮮烈な感動は今も記憶に残っています。ビタミン発見に至る過程がわかりやすく書かれていて、少年時代に科学の物語を読んで素直に感動した時の、知的な興奮というものを再び味わった思いがしました。

    この『髙木兼寛とビタミン』の文章の他にも、松田氏には『髙木兼寛の脚気栄養説が国際的に早くから認められた事情』『髙木兼寛の脚気の研究と現代ビタミン学』『脚気病原因の研究史―ビタミン欠乏症が発見、認定されるまで―』などの文章があり、大変参考になりました。それらの文章および他の資料を交えて、ビタミン発見へ至る展開を下記のようにまとめてみました。

    ここには科学の進展の典型的な例があります。先行する者の説を確認し、一部の変数を変えて新たな実験をし、その結果をもとに先行者の説を修正し科学誌に発表する。それをまた次の者が同じような取り組みをして更に新しい説を生み出し、一歩一歩真理へ肉薄して行く。

    先行者の説にちょっとでも誤りがあれば全てを否定し去るというような“全か無か”の態度ではなく、誤りを修正し改良した説を公表する。ここまでは確実だ、という範囲を徐々に広げて行く。そして壁にぶち当たった時、一種の跳躍が行われて全く新しい概念が生まれ、それがブレイクスルーとなって新しい段階へと進んで行く・・・

    Funkの命名によるビタミンも、これは命名の傑作であって、命にかかわる(vital)アミン(amine)なるものが存在するとすれば、脚気に限らずこれまで難病・奇病とされ原因がわからなかった病気も、何らかのビタミン的なるものの欠乏ではないか?という視点も可能となり、細菌学とはまた違った、全く新しい分野が一挙に開けたのです。

    このようにして未踏の地が開拓されて行くのですが、ひるがえって当時の日本の医学界を見ると、兼寛の説に対する批判に終始し、足が一歩も前へ出ていないことに愕然とします。輸入した既存の西洋医学の中にとどまり、兼寛による脚気根絶という新しい現象を前にしても、「学理がない」と言うだけで、自らその学理を追究することはしませんでした。

    当時、学理とは何か権威をもって既成のものとして西洋からやって来るもので、自ら探求するものではなかったのでしょう。そう考えると、自然科学の分野で毎年のようにノーベル賞を輩出している現代の日本は、随分遠くまで来たわけで、すごいことです。

    未踏の地に足を踏み出すことはいつの時代でも不安がつきまといます。ビタミン学を開拓していったヨーロッパの学者達も、細菌学全盛の時代にあって、何度も引き返そうと思ったことでしょう。そんな時、兼寛の行った壮大な実験航海と兵食改革による脚気激減の実績は、学者達にとってどれほど勇気づけるものだったでしょう。

    栄養と病気の関係については昔から言われていたことでしたが、明確な意図をもって実験を行い、その結果をデータとして科学誌に掲載したのは兼寛が初めてでした。これにより、栄養と病気の関係が科学的議論の俎上にのぼったのです。

    兼寛はビタミンそのものを発見したわけではなかったけれども、このようにビタミン発見へと至る潮流を創り出す上で、非常に大きなインパクトを与えました。その意味で兼寛を「ビタミンの父」と呼ぶのは適切だと思います。あるいは、より直接的にはFunkがビタミンの父であるとすれば、兼寛は「ビタミン学の始祖」と呼んでもいいかもしれません。(初出 2017年2月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 15

    次に、脚気をめぐる髙木兼寛とドイツ医学派の対立をまとめた表中の②の大沢謙二による批判を見てみます。

    兼寛は「脚気は栄養バランスの異常から生じる。具体的にはタンパク質に比して炭水化物を異常に摂り過ぎると脚気になる。窒素と炭素の比率に置き換えると、1:15を大きく逸脱すると脚気になる」と主張します(窒素はタンパク質にのみ含まれるのでこのように置き換えることができます)。

    これに対し、大沢は、兼寛は各栄養素の摂取前の比率しか見ていないが、吸収率を見ないとおかしいのではないか。例えば、兼寛は白米よりも麦飯を勧めるが、麦の消化吸収は白米よりも劣っているので、麦と白米のタンパク質の吸収率を考慮すれば白米のタンパク質の方が体内に吸収される量が多くなる。それはタンパク質を重視し麦飯を勧める兼寛自身の説に矛盾する、と言って批判しました。

    これは非常に鋭い批判です。兼寛もこの批判に関してはかなりショックを受けたでしょう。そして、もし大沢が批判にとどまらずに、更に探求を推し進めていたら、炭水化物でもタンパク質でもない、何か未知なる物質が存在するはずだ、という予測にたどり着いていたかもしれません。しかし、残念ながら、大沢は兼寛の説の批判にとどまり、それを修正・発展させるという道には進みませんでした。それを行ったのはヨーロッパの学者達でした。

    兼寛は、こうしたドイツ医学派からの批判や無視に苦しみ悩みながらも、海軍での兵食改革を推し進め、脚気撲滅の実績を積み上げて行きます。何百という海軍の脚気患者が兼寛の考案した食事献立で日々快方に向かい、快癒して軍医である兼寛に対して感謝を述べるその一つ一つのケースが、兼寛にとっての慰めであったでしょうし、自信の源でもあったでしょう。

    このように、海軍においては兼寛の主張に沿った兵食改革により、脚気患者や脚気死亡者が劇的に減少したのですが、ドイツ医学派が占める陸軍医務局は兵食改革を行うわけでもなく、学者達も兼寛の説を修正・発展させるわけでもなく、兼寛の説の不備を突くばかりでした。

    ドイツ医学派の批判は、兼寛の説には“学理がない”、ということでした。なぜ、窒素と炭素の比率が1:15を逸脱すると脚気になるのか、それを説明する学理がない、というのです。

    この「学理がない」という表現は、少し立ち止まって考えると、非常におもしろい表現だと言えます。おもしろいと言う意味は、当時の日本の科学者たちの立ち位置や指向を表しているという点で興味を引くという意味です。

    兼寛は、統計の分析、患者の診察、兵士の食事の観察などから、脚気栄養バランス説に至り、実験航海や兵食改革を通してそれを確認し、窒素と炭素の比率1:15という説を導き出します。そして実際に脚気患者を激減させて行きます。

    これは驚くべきことであって、兵士の健康管理を預かる現場の軍医としては、必要にして十分な働きです。称賛されこそすれ、何ら批判されるような筋合いのものではありません。

    そして、こうした驚嘆すべき現象を前にして、その背後にある学理を探求することは、それこそ学者の仕事ではないでしょうか。「学理がない」と言って、現場で実績を出している軍医を批判することは、学理追究という学者としての本分を当時の学者達はどうとらえていたのか、ということです。

    「学理がない」というのは、もっと詳しく言うと「当時の日本が受け入れつつあった西洋医学の体系の中に、この兼寛の説の根拠となる学理がない」ということでしょう。既存の体系の中にはない。それはつまり、兼寛が示した脚気激減の現象は世界初の現象だったということです。

    そういう場合、現代の日本の科学者であれば、ここには何か新しいものがある、新しい鉱脈がある、ということでその原理の解明に向かうでしょう。しかし、当時の日本では、新しい現象を見ても、それを説明する学理がないと言って、その現象そのものを否定する、あるいは無視する、という方向に動いたのです。

    これは結局、当時の日本が、西洋医学を輸入することに精一杯で、既存の西洋医学の体系を何か絶対的なもの、確固として動かすべからざるもの、と見なす傾向があった事から来ているのでしょう。何かを受容する場合は、そのように対象を絶対視した方が受容の度合いも大きいのは確かです。その意味では、文明開化時の日本は非常に優秀な学習者だったと言えます。

    しかし、兼寛が提示した現象は、既存の体系の中にはなく、従って学習の対象ではなく、未知の学理をこれから探求すべき新しい現象だったのです。

    今学習し受け入れつつある既存の西洋医学の体系では説明できない新しい現象。それをどう扱えばよいのか。当時の日本の学者達の手に余った、ということも兼寛の説が当時の日本の医学界に受け入れられなかった理由の一つと言えるかもしれません。

    明治開化期の日本は“科学”は輸入したけれども、“科学すること”を自ら体得していた学者は極めてまれだったでしょう。兼寛はその希少な一人であり、時代よりも先行していたがゆえの苦悩だったと思います。

    兼寛が示した兵食改革による死病脚気(西洋ではberi-beriと呼ぶ)の根絶という世界初の現象は、日本ではなく、ヨーロッパで本格的に解明が進みます。科学とはこのようにして進展するのだという見本のような、学者達の見事なリレーによって、ビタミン学の肥沃な分野が立ち現れて来ます。兼寛たちの時代より300年も前から自然科学展開のトレーニングをして来たヨーロッパ。さすがです。ただ、その展開の始点に日本の髙木兼寛がいることは、誇っていいことでしょう。(初出 2016年12月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 14

    この表は脚気をめぐる髙木兼寛とドイツ医学派の対立を簡単にまとめたものです。表中のドイツ医学派①、②、③についてもう少し見て行こうと思います。

    ①の脚気細菌説について

    兼寛とドイツ医学派が脚気をめぐって論争をしていたこの時期は、ヨーロッパでは細菌学がちょうど隆盛期を迎えていて、ドイツのコッホやフランスのパスツールが華々しい活躍をしていました。

    そのコッホを生んだドイツ医学を官学として採用した当時の日本の医学界が、難病脚気の原因は細菌ではないかと想定するのは、時代の趨勢からして無理からぬことだったでしょう。しかも、東大医学部のドイツ人教師ベルツや京都療病院のドイツ人医師ショイベ等が脚気細菌説、脚気伝染病説を唱えていたこともあり、多くの日本の医学関係者が脚気細菌説に傾いていました。

    しかし、冷静に見てみると、この議論自体には脚気の原因が細菌であるという科学的な根拠はないことがわかります。細菌学が当時世界的に隆盛期を迎えていたことや、コッホを生んだドイツ医学を日本が官学として採用したことや、ドイツ人の先生たちが脚気細菌説を唱えていたこと。こうしたことだけでは、当然ながら、脚気の原因が細菌であることを示す科学的な根拠とは言えません。

    兼寛のすごいところは、こうした時代の趨勢に流されず、データの分析、脚気患者の診察、兵士たちの食事の観察等から、全く違う推論を展開したことです。ここには一個の独立した、“剛毅な”と言ってよい精神があります。そして自ら導き出した結論を基に、「失敗したら切腹」という覚悟を持って、国家的規模の壮大な実験航海を行ったのでした。

    ドイツ医学派は顕微鏡と試験管を使って研究室で病原を追究して行きますが、脚気患者の体をいくら顕微鏡を使って検査してもいつも空振りに終わりました。顕微鏡を使うこと自体は、病原追究のためには必要なことです。しかし、患者の体内について調べるということは、その時点で一つの仮説を無意識のうちに採用していなかったでしょうか。

    すなわち、「患者の体内に何か通常とは異なるものが“有る”のではないか」という仮説。この第一歩目が既に間違っている、ということにはなかなか思い至らなかったでしょう。

    というのは、現代の私達にはもうわかっていることですが、何か有害なものが“有る”から起こる病気もあれば、必須なものが“ない”ことから起こる病気もあり、脚気は後者だったからです。しかも、この時点では必須なものが何なのかわかっていない。そういうものが存在することすら誰も知らない。

    存在することさえわかっていないものが、そこに“ない”ことから生じる病気・・・これはめまいのするような話です。患者の体内を顕微鏡で調べても、常に空振りに終わっていた理由がそこにあります。探しようがない、です。

    兼寛は全く違うアプローチをしました。統計的データの徹底的な分析により、言わば、外側から問題の在りかを絞り込んでいく方法で、患者の体内ではなく、食物、その栄養のバランスに問題があることを突き止めました。問題の在りかさえわかってしまえば、その後は顕微鏡などを使って精査して行けばよいので、そのレールの延長上にビタミンの発見があります。ドイツ医学派は、何か有害な有るもの(細菌)、それの人体への侵入、というように問題の領域を安易に限定してしまったと言えます。

    ドイツ医学派の中にも、兼寛による海軍での脚気激減の実績を見て、また、兼寛の先入観のない、道理にかなった推論に触れて、脚気栄養バランス説に賛同する者もいたでしょう。しかし、“官学”たるドイツ医学派としての立場上、表だってイギリス医学派の兼寛への賛同を表明することは難しかったかもしれません。

    また、強固に脚気細菌説を信奉する学者が歴代の東大医学部の学長として君臨していたその下で、果たしてどれほどの自由な研究が可能だったでしょうか。

    トップが誤ることはあります。その時、下の者はどう対処して行けばいいのか。現代の私達はそれに関して多少なりとも進歩しているのでしょうか。トップが誤ることをも予め織り込み済みの体制作りとなっているのでしょうか。

    兼寛とドイツ医学派との対立は、いろいろなことを現代の私達にも問いかけていると思います。(初出 2016年10月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 13

    艦 名
    龍 驤

    筑 波
    食事内容例
    (宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナーの復元模型)

    多量の白米と粗末な副食
    窒素:炭素=1:28

    炭水化物を減らしタンパク質を重視
    窒素:炭素=1:15
    航海日数272日287日
    乗員数378人333人
    脚気患者数169人15人
    脚気による死亡者数23人0人
    多くの脚気患者と死亡者を出した『龍驤』艦と、栄養バランスに配慮することで脚気を出さなかった『筑波』艦の比較表

    明治17年(1884年)に行われた練習艦『筑波』による実験航海は見事な成功を収め、これにより日本海軍の兵食改革ははずみを得て、海軍における脚気患者数、死亡者数は激減します。兼寛は『筑波』の実験航海についてまとめた論文を、翌明治18年(1885年)3月に『大日本私立衛生会雑誌』に発表します。脚気は栄養バランスの異常により生じ、その栄養バランスへの適切な配慮によって脚気を予防し、治すことができる、と結論づけた論文でした。

    ところが、その『大日本私立衛生会雑誌』の翌月号に、今度は東大医学部の緒方正規の論文が載り、その内容は、なんと、緒方が“脚気病菌”を発見したというものでした。緒方は大学の講堂で大演説会を開き、兼寛の説を批判し、脚気は細菌によるものだと主張。この演説会に一般聴衆として参加していた兼寛は、緒方の演説の後に演壇に立ち、『龍驤』艦と『筑波』艦の例を出して、脚気は栄養バランスによるものだという自説を力説。すると今度は、陸軍の軍医監である石黒忠悳(ただのり)が演壇に立ち、自分も脚気ばい菌説であると述べ、緒方の応援演説をしたのでした。

    緒方の“脚気病菌”発見はすぐに“官報”にも掲載されました。また、同じ年の7月発行の『大日本私立衛生会雑誌』には、東大医学部生理学教授の大沢謙二による「麦飯ノ説」という論文が掲載され、その中で大沢は、兼寛が脚気対策として麦飯を勧めているが、麦飯は米飯よりも消化が悪いので、吸収されるタンパク質は麦飯より米飯の方が多い、従ってタンパク質を重視する兼寛の説と矛盾するとして兼寛の説を批判しました。

    『筑波』の実験航海で成功を収め、海軍において脚気撲滅の実績を上げつつあった兼寛でしたが、このように東大医学部や陸軍医務局から集中攻撃を受けます。この、現代の私達から見ると異常なまでの攻撃の理由は何なのでしょうか。

    当時、政府はドイツ医学を採用していました。東大医学部や陸軍医務局は当然、ドイツ医学派でした。一方、海軍だけは歴史的経緯からイギリス医学を採用し、兼寛もイギリス留学を終えて日本に帰って来たのでした。その、イギリス医学派と言っていい髙木兼寛が、日本の国民病と言われた難病脚気に対して劇的な効果を示しつつある。“官学”たるドイツ医学派がまだ解明できていない脚気に対して、イギリス医学派の髙木が顕著な効果を示しつつある・・・そのことに対する官学側の焦りも混じった複雑な心境が、この兼寛に対する激しい攻撃を生んでいるのではないでしょうか。

    下の表は、脚気をめぐる兼寛とドイツ医学派との対立を簡単にまとめたものです。

    錚々たる顔ぶれであり、日本の近代医学の基礎を築いた、顕著な功績を持つ人たちです。それは疑いようがありません。しかし、こと脚気に関しては、その後の歴史が証明するように、ドイツ医学派は大きく的を外れていたのであり、兼寛の側からビタミン学が発生するのです。

    ドイツ医学派は、兼寛を批判することに終始し、脚気患者を実際に治すことはついに出来ませんでした。その間、兼寛は、年間1000人を超えていた海軍の脚気患者をゼロにし、年間30人から50人いた海軍の脚気死亡者をゼロにしたのでした。

    医療は結果が全てである、というシンプルだけれども厳粛な原則を思う時、この事実は非常に重いのではないでしょうか。

    次回以降で、上の表の①②③についてもう少し見て行きたいと思います。(初出 2016年8月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 12

    明治17年(1884年)11月16日、練習艦『筑波』が太平洋横断の大航海を終えて東京湾に戻って来ました。前年に多くの脚気患者、死亡者を出した『龍驤(りゅうじょう)』との比較は次の表の通りです。

    『龍驤』と『筑波』の比較表

    艦 名
    龍 驤

    筑 波
    食事内容例
    (宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナーの復元模型)

    多量の白米と粗末な副食



    窒素:炭素=1:28

    パン、ビスケット、牛肉のステーキ、大豆の五目煮、牛乳等(炭水化物を減らしタンパク質を重視)
    窒素:炭素=1:15
    航海日数272日287日
    乗員数378人333人
    脚気患者数169人15人
    脚気による死亡者数23人0人

    『筑波』の脚気患者は15人で、『龍驤』の10分の1以下。死亡者は0でした。15人の脚気患者について詳しく報告を聞くと、肉や牛乳を嫌って口にしない者たちでした。米飯に慣れていてパンを捨てる者もいるということでした。

    脚気対策には洋食がいいというのが兼寛の確信でしたが、洋食を嫌ってそれを口にしなければ意味がありません。パンこそが至上の主食であり、白米は脚気の発生を促すと考える兼寛は、パンの原料は麦なので主食を米と麦の混合にしたらどうか、と提案します。兼寛の兵食改革の効果に感嘆していた川村海軍卿はその提案を受け入れ、全海軍に通達し、“麦飯”が供給されるようになりました。

    こうした海軍における一連の兵食改革の結果が次の表及びグラフです。

    明11年明12年明13年明14年明15年明16年明17年明18年明19年明20年明21年
    脚気患者数1485197817251163192912367184100
    死亡者数3257273051490000
    明治17年(1884年)に兵食改革が開始された

    上のような、海軍における脚気患者数と死亡者数の激減のデータを前にして、海軍が断行した兵食改革が脚気減少に何らかの影響を与えている、と見るのが素直な見方でしょう。ここには何もない、と見る方が難しいでしょう。しかし、陸軍医務中枢部や東大医学部の一部はこれを“偶然であり、因果関係はない”と断定。真正面からとらえようとしない者もいました。

    結局、陸軍は、海軍のこうした脚気激減の現実があるにもかかわらず、みずから兵食改革を断行できずに、日清・日露戦争に臨み、脚気大惨事を引き起こしてしまいます。それは陸軍自身が「古今東西の戦疫記録中ほとんど類例を見ざる」と評するほどの惨事でした。(日清では陸軍の脚気患者は34,783名、脚気による死亡者は3,944名。日露では陸軍の脚気患者は211,600余名、脚気による死亡者は27,800余名。一方海軍は、日清での脚気患者は34名、死亡1名。日露では脚気患者は軽症者が若干名、死亡0)

    すぐには信じられない数字であり、日清と日露との間には10年という年月があるのに、何も学習することがなかったのでしょうか。また、同じ日本の軍隊で、陸軍と海軍の間でこれほどの違いがあるというのは、国としてどうなのでしょうか。それらは誰もが自然に持つ疑問でしょう。

    そういった疑問を突き詰めて行くと、次の問いに行き着きます。すなわち、なぜ、陸軍医務中枢部や東大医学部は、海軍の脚気激減のデータを前にして「ここには何らかの因果関係があるのではないか?」と認められなかったのか。この問いは非常に大きな、また深いテーマになり得ると思います。そして、いろいろな教訓を引き出すことのできる研究対象となり得ると思います。

    ドイツ医学派対イギリス医学派という党派性の問題、医学と医療の役割の違い、科学の受容に精一杯だった当時の日本の“科学マインド”の成熟度、政策決定を行う中枢部と現場との関係のあり方、官や“お上”に対する当時の日本人の心性、一つの党派が官・学・軍を独占することの功罪、・・・ そうした様々な問題に波及して行く可能性をもった研究テーマだと思います。

    このブログは、私達の郷土が生んだ偉人、髙木兼寛の功績を追いかけようとして始まったのですが、とても大きな、困難な山が現れて来てしまいました。その山を前にして、兼寛自身もその生涯の中で大変苦しみ悩んだはずです。世界的な業績を達成しながら、自分の国で認められずに、ほとんど孤軍奮闘と言ってよい兼寛でした。

    このブログでは、このあと、兼寛に対するドイツ医学派からの集中的な批判を検証したいと思います。また、国内とは対照的に海外で次第に高まる兼寛の評価を私達は見るでしょう。そして最後は文豪森鷗外の謎に、少し、踏み込みたいと思います。(初出 2016年5月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 11

    練習艦『筑波』。吉村昭『白い航跡』(講談社文庫)の表紙に掲載。多くの人が注視する中、太平洋横断の大航海へ出た

    『筑波』の食事を復元した模型。パン、ビスケット、牛肉のステーキ、大豆の五目煮、牛乳、など。脚気対策のため、炭水化物を減らしタンパク質を重視する兼寛の説に基づくメニュー(宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナー)

    明治17年(1884年)2月3日、日本海軍の練習艦『筑波』がニュージーランド、南米チリ、ペルー、そしてハワイを経由して日本に帰って来るという太平洋横断の大航海に出航しました。前年に乗組員378名中169名の脚気患者、23名の死亡者を出した練習艦『龍驤(りゅうじょう)』と同じ航路です。

    兼寛は脚気の原因は食物の栄養バランス、すなわち炭水化物とタンパク質の異常な比率にあると確信していたので、『筑波』のメニューも炭水化物を減らしタンパク質を重視したものに定め、それを航海中、厳格に守るよう艦長達に指示しました。艦長始め乗組員達はこの実験航海の意義を十分に理解していたので、その士気は高く、食事に関する兼寛の指示通りにすることを約束しました。

    通信機器の発達した現代であれば航海中の状況もリアルタイムで詳しく知ることができますが、この時代は寄港地から手紙を船便で送るか、電信(モールス信号等)だけです。日本で待っている兼寛の心境はいかばかりだったでしょう。

    吉村昭の小説『白い航跡』には、この時の兼寛の不安にさいなまれ悶え苦しむ様が描かれています。自分の説には十分確信は持っていたものの、実験航海が終わらないうちはどうすることも出来ません。もし、自分の説が間違っていて、『筑波』も『龍驤』と同じように多数の脚気犠牲者を出したら? 政府要人に働きかけて大蔵省の国家予算も特別に組み替えて、莫大な費用の負担を強い、天皇陛下にまで自説を言上したのにそれがもし誤りだったとしたら? 兼寛は夜も眼が冴えて眠れず、眠りに落ちても夢を連続して見ました。

    『筑波』の艦内いたるところに脚気患者が寝ていて、死者を白い布に巻いて海中に水葬するシーンの夢。「こんな食量表など何の役にも立たぬ。かえって患者が多くなるばかりだ!」と艦長が激怒し、兼寛が与えた食量表を怒りに満ちて破り捨てる夢。脚気のために皆が倒れ、航行に従事できる者もいなくなって、『筑波』が洋上を幽霊船のように漂っている夢・・・

    兼寛は食欲が衰え、痩せて頬がこけ、眼はうつろになりました。

    『筑波』は寄港地のニュージーランド及び南米チリからその都度、報告書を送って来て、それによればそこまでは順調に航海は進んでいるようでした。しかし、あの『龍驤』もそこまでは問題はなかったのです。『龍驤』が戦慄すべき数の脚気患者と死亡者を出したのは、南米からハワイへ至る果てしなく続くような太平洋の航海中でした。『筑波』はこの“魔の海域”を乗り切れるかどうか。

    この年、明治17年(1884年)の秋が日増しに深まって来ました。

    10月9日夕刻、川村海軍卿から使いが来て、兼寛は川村のもとへ向かいます。『筑波』がチリからの航海を経てハワイに着いたという報告があったとのこと。川村は『筑波』の艦長からの電信文を持っていました。(ここからは吉村昭の『白い航跡』からそのまま抜き書きしましょう)

    川村は、自分の前におかれた電信紙を手にした。

    近寄った兼寛は、それを受取り、電信文に視線を据えた。電信紙には、

    「ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ」

    という文字が記されていた。

    電信紙を持つかれの手が、激しくふるえはじめた。病者一人もなし・・・、かれは胸の中でつぶやいた。安心あれ、という片仮名文字の文章に、不意に咽喉もとに熱いものがつきあげてきた。

    通信文の文字が涙でぼやけたが、かれはその文字を一字ずつ眼で追いながら立っていた。歯をくいしばり、嗚咽(おえつ)がもれるのをこらえていた。

    川村の前では必死に堪えていた兼寛でしたが、川村の部屋を出て自室にもどった彼は“ビヤウシヤイチニンモナシ”と胸につぶやき、ついに堪えきれずに嗚咽したのでした。

    海軍省内も『筑波』艦長からの脚気患者一人もなしという電文に沸き立ちました。『龍驤』と同じように『筑波』でも悲惨な事態が起きると予測していたからでした。

    この“ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ”に兼寛が嗚咽するシーンは、兼寛の人生の中のクライマックスだったでしょう。脚気をどうにかしたいの一心で研究を重ね、栄養バランスに原因があることを確信。その確信を兵食改革に結びつけるために上司や関係機関、政府要人に粘り強く交渉し、国家的規模の実験航海を実現させ、その結果を待つ間の想像を絶するプレッシャー、考えただけでも逃げ出したくなるようなプレッシャーに耐えた。後年、若い軍医が兼寛に「もしあの時筑波艦内に脚気患者が発生していたら、その時はどうなさるおつもりだったのですか」と問うたところ、彼は即座に「その時は切腹してお詫びするつもりであった」と答えたそうです。ほんの10何年か前までは江戸時代だったのですから、まだこの頃は武士の気概が十分に残っていたのでしょう。

    そして、これは兼寛の人生にとってのクライマックスであったと同時に、世界の医学史の中でビタミン学がうぶ声を上げた瞬間でもありました。栄養バランスによって生じる死病があり、それはまた栄養への配慮によって予防しかつ治すことができる、ということを一国の海軍が国家予算を使って実験し証明したのです。

    そのインパクトは大きく、細菌学全盛の時代にあって、全く発想法の変更を迫るものでした。病原を患者の体内に探すのではなく、食物の栄養と病気の関係に光を当てることを要求するものであり、のちにビタミン学へと発展する潮流を創り出したのです。

    このように、『筑波』の実験航海はまことにあっ晴れな壮挙だったと言えるのですが、歴史はそう単純なものではありませんでした。この『筑波』の実験航海に対する日本海軍と陸軍の反応は全く対照的でした。そしてそれがそのまま日清・日露戦争時の脚気惨事へとつながって行きます。(初出 2016年3月 一部修正)