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イギリス留学時代の髙木兼寛
明治8年(1875年)、ロンドンでの留学生活が始まります。鹿児島医学校でウィリアム・ウィリスに、東京の海軍病院でウィリアム・アンダーソンに就いて医学と英語を身に着けていた兼寛は、この由緒あるセント・トーマス病院附属医学校でもすぐに頭角を現し、ついに成績トップとなります。この医学校の最高外科賞牌(はい=メダル)であるチェセルデン銀賞牌、そして医学全般の顕著な進歩と品行方正の賞として金賞牌も授与され、名実ともにこの医学校で最優秀の医学生となりました。
今でこそ日本の科学技術の優秀性は世界に知られるところとなり、1年に3人もノーベル賞を輩出するような年も出て来るぐらいになりましたが、当時、明治維新からまだ10年前後しか経っていない時代に、世界最先端の文明国イギリスの、最も由緒ある病院の附属医学校で、東洋の“Japan”という島国から来た青年が成績トップになる、ということは現地では大変な驚きだったことでしょう。
上の写真を提供してくださった川崎氏も「世界の海を制覇したヴィクトリア女王時代のイギリスは世界各地に植民地を持ち、アジア各地にも海軍基地を築き、そこの人民はみな女王の臣下だという意識があった。そういう時代に極東の国からイギリスへやって来た青年がイギリスの医学校のトップになった。これは大変センセーショナルな事だったに違いない」と言われていました。
それにしても、髙木兼寛に限らず、この時代に欧米に留学した日本の青年たちは本当に優秀な人たちが多かったですよね。ただ優秀なだけでなく、新国家建設のためという大変なプレッシャーにも負けない強靭な精神力も備えていました。
本人たちの能力の高さはもちろんですが、明治維新に至るまでの江戸期の日本の学問素養の高さもその根底にあったでしょう。だからこそ、明治維新後ほんの10年でイギリスの学校で日本人が最優秀賞を取ることもできたのだと思います。
兼寛はこのセント・トーマス病院時代に実に多くのことを学びます。イギリスにおける外科・産科・内科の医師の資格を得、また、イギリス外科学校のフェローシップ免状も授与されました。これは、外科医の最高の栄誉とされている学位で、医学校の教授になる資格でした。つまり、兼寛は医学を学習する立場から教える立場(しかも英国で)になったのでした。
こうした医学の資格だけでなく、兼寛はイギリスの医学界を取り巻く制度、教育、文化というものについてもその頭脳と感受性をもって大いに吸収し、日本に持ち帰ります。
明治13年(1880年)、5年ぶりに髙木は日本に帰って来ました。ここから髙木の超人的な活躍が始まります。(初出 2015年5月 一部修正)
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