高木兼寛という人がいた 1

宮崎市高岡町出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。髙木兼寛(たかきかねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鷗外と大論争を繰り広げた人です。

私はこの高岡町内のある社会福祉法人で仕事をしていましたが、恥ずかしいことにあまり髙木兼寛のことは詳しくは知りませんでした。最近、この人物について少し調べることになって、いろいろ調べてみると、知れば知るほどその偉大さに驚いています。みんなもっと知らないといけないのではないか?と思うようになりました。

私は専門的に髙木兼寛のことを研究しているわけではないので、このブログでも専門的な、また正確無比な文章を書くことはできませんが、もし、これを読んで少しでもこの人物に関心を持ってもらえるなら、と思い、これから断続的に書いていこうと思います。

髙木兼寛という人自身が偉大なのはもちろんですが、彼の生きた明治という時代の息吹き、医学界を二分するイギリス経験主義とドイツ理論主義のせめぎ合い、文豪森鷗外の意外な側面、そして「病気を診ずして、病人を診よ」という私たち介護に携わる者にはピンとくる兼寛の言葉・・・等々、ちょっと見ただけでも何かドラマティックな展開が予想されます。

このブログもこれからどんな風に展開していくのか予測ができません。また、毎回は髙木兼寛のことについて触れないかもしれません。私自身も勉強しながら、その時点その時点での勉強の成果、また髙木兼寛にまつわる話を少しずつ書いて行けたらと思います。(初出 2014年6月  一部修正)

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