高木兼寛という人がいた 5

イギリス人医師ウィリアム・ウィリス。

鹿児島に招かれ、髙木兼寛に医学と英語を伝授する。

名医として評判の高かったイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが鹿児島に招かれ、新設された鹿児島医学校兼病院の校長兼病院長となり、髙木兼寛もそこの学生となります。医学と英語を勉強しめきめきと力をつけて行った髙木はウィリスに見いだされ、教授および手術助手として抜擢されます。名医ウィリスから実地に指導を受けたことがその後の髙木の躍進に大きく影響を与えたと言っていいでしょう。

ところで、髙木が最初に鹿児島に来た時の先生だった石神良策は、その頃東京にいて、海軍病院の医務担当をしていました。そして髙木を海軍病院の医員として推挙した旨の手紙を髙木に送って来ます。鹿児島で充実した日々を送っていた髙木は戸惑いますが、ウィリスの後押しもあり、東京行きを決断します。

明治5年、兼寛24歳。東京の海軍病院での勤務が始まりました。当時の日本の医学界は完全にドイツ医学になっていましたが、海軍だけは軍制の範をイギリスにとっていたので、海軍の軍医もイギリス医学を受け入れる方向にありました。そして海軍独自の教育方法によって軍医を養成すべきだということになり、海軍病院内に学校を設けます。

そしてイギリスから学力、人柄ともに優れた医師を教官として招くことになりました。それがウィリアム・アンダーソンという若き医師で、イギリスで最も古い由緒あるセント・トーマス病院附属医学校を優秀な成績で卒業した人でした。

東京の海軍軍医学舎(海軍軍医学校)に招かれたイギリス人医師ウィリアム・アンダーソン

髙木兼寛を高く評価し、母校のセント・トーマス病院附属医学校への留学の推薦状を書く

(宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナー)

このアンダーソンとともに海軍病院で勤務していた髙木は、上官の石神良策からまたもや重大な転機となる提案を受けます。

「イギリスへ留学しないか?」髙木をイギリスに留学させることは石神にとっての悲願でした。また、アンダーソンも、医者としての技量も英語力も抜群だった髙木を推薦していました。海軍省は髙木のイギリス留学を認め、アンダーソンが母校のセント・トーマス病院に連絡を取り、髙木が入学できるように取りはからってくれ、推薦状も書いてくれました。髙木は官費留学生としてイギリスに行くことになったのです。

留学の準備をしていた髙木にとって大変悲しい事が起きました。恩師であり上官である石神良策が急に倒れてそのまま帰らぬ人となったのです。

この石神という人は不思議な人で、常に兼寛の一歩先を歩いていて、髙木を引き上げて新しい世界へ導く人でした。石神は髙木が初めて鹿児島に来た時の先生(蘭方医)でしたが、戊辰戦争の時も兼寛よりも早く戦場に入っていて、戦場で再会し、名医ウィリアム・ウィリスのことを兼寛におしえ、鹿児島にそのウィリスを招いて髙木がその指導を受けられるようにしたのもこの人。髙木を東京の海軍病院に呼び寄せたのも石神で、イギリス留学を実現させたのもこの人でした。また、結婚の世話もしてくれたのでした。

石神は髙木をイギリスへ留学させるという自分の悲願を達成したことで、自分の役目は終わったと思ったのでしょうか。ここまで自分の教え子のことを思う師もすごいし、またそこまで師を本気にさせる髙木という教え子も大変な逸材だったということでしょう。

明治8年(1875年)、27歳の兼寛はイギリスの地を踏みます。当時のイギリスはヴィクトリア女王の時代で、世界の文物の最先端を行く大英帝国の最盛期でした。その世界帝国の首都ロンドンのど真ん中にセント・トーマス病院はありました。大きな病院で、テムズ川に面し、対岸には英国国会議事堂であるウェストミンスター宮殿があり、時計台のビッグベンが見えました。5年間の留学期間中、毎日のように兼寛はビッグベンを見、その鐘の音を聞いたことでしょう。(初出 2015年3月 一部修正)

兼寛が留学した頃のセント・トーマス病院。テムズ河畔に移転改築されたばかりで、まだ新しかった。礎石がヴィクトリア女王によって行われた。(川崎渉一郎:『高岡町出身、明治期の英傑・・・高木兼寛の足跡を辿る旅』宮崎市郡医師会会報 「醫友しののめ」145~147号 2014年)
現在のセント・トーマス病院(同上)

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