投稿者: kawa@ak

  • 危機管理に奮闘した偉人―高木兼寛没後100周年

    若き日の髙木兼寛(イギリス留学時代)

    一昨日、令和2年(2020年)4月13日は、ちょうど髙木兼寛没後100年でした。

    髙木兼寛(かねひろ)、知る人ぞ知る明治・大正期の偉人で、日本帝国海軍軍医総監、「ビタミンの父」「日本疫学の父」とも呼ばれています。

    髙木兼寛の功績を記念して、イギリスの南極地名委員会が南極大陸のある岬を“高木岬”(Takaki Promontory)と名付けたことを知っている人はほとんどいないでしょう。

    実は私もほんの5,6年前まで全く知らなかったのです。

    高木岬の命名は1950年代だったのですが、最近になってようやく、日本の小・中学校で使われる地図帳に高木岬の名前が載るようになったとのことです。

    ビタミン発見に貢献した先人たちを顕彰するために、ビタミンの命名者Funkやノーベル賞受賞者Eijkmanらとともに、髙木兼寛にちなんだ地名が付けられたのでした。

    今、私達は新型コロナウイルスの脅威にさらされていますが、明治・大正の頃、日本は原因不明の死病脚気(かっけ)に苦しめられていました。

    海軍の練習艦『龍驤(りゅうじょう)』が太平洋への練習航海を行った時、乗組員378名中169名が脚気にかかり、23名が亡くなりました。

    死亡者数を患者数で割った致死率13.6%。

    また、死亡者数を乗組員数で割った死亡率は6.1%。

    練習のための航海をするだけなのに、100人に6人は脚気で死ぬのです。

    海軍軍医で海軍病院の院長だった髙木兼寛は強い危機感を抱きます。

    時代は弱肉強食の帝国主義時代で、日本は欧米列強の脅威に立ち向かうだけでなく、脚気という内側の敵とも戦わなければならない状況でした。

    兼寛は難病脚気を克服するために、過去の記録を精力的に調査し、ついに脚気は食事に関係があることを突き止めます。

    炭水化物に比してタンパク質が極端に少ない時、脚気が発生することに気付いたのです。

    その確信に基づいて兼寛は海軍上層部に兵食改革の必要性を説きますが、上層部は懐疑的でした。

    ますます焦燥感に駆られた兼寛は、有力政治家や大蔵省とみずから交渉して、実験航海の実現にこぎつけます。

    そこに至るまでの兼寛の気迫、情熱、使命感。

    失敗したら切腹、ということまで兼寛は覚悟しました。

    そして・・・

    炭水化物とタンパク質の比率を考慮した練習艦『筑波』による実験航海は、脚気死亡者を全く出すことなく、大成功を収めたのでした。

    こうしたことについて兼寛は英語で論文を発表し、栄養と病気の関係に注目する学者が次第に増え、それが一大潮流となって、のちのビタミン発見へとつながって行くことになります。

    そのため兼寛は「ビタミンの父」と呼ばれるのです。

    それにしても、もしあの時、兼寛が高く厚い壁の前に心が折れて引き下がっていたら、あるいは「俺の知ったことか!」と投げやりになっていたら、

    やがて来る清国やロシアとの、国の命運をかけた戦いの時、日本はどうなっていたでしょうか。

    良くも悪くも、今の日本はなく、別の姿になっていたと思います。

    さて、こうした兼寛の目覚ましい働きは、実は当時の日本では、海軍を除いて、ほとんど認められませんでした。

    当時の日本は官学としてドイツ医学を採用していたのですが、ドイツ医学はコッホに代表されるように、細菌学において世界の最先端を行っていました。

    難病脚気も細菌による伝染病の一種と考える医学関係者が多かったのです。

    しかも、兼寛の「炭水化物とタンパク質の比率が脚気の原因である」という説には、理論的な裏付けがない。

    いわゆる“学理”がない、ということで蔑視されたのです。

    更に、兼寛が推奨した麦飯に関して、麦と白米の吸収率を見た時、麦の方が吸収率が悪いので、麦飯よりも白米のタンパク質の方が吸収量が多くなるということで、兼寛の説は矛盾していると指摘されます。

    このような批判は非常に鋭いものがあり、兼寛は反論できないようでした。

    こうした批判は一見もっともなように見えますが、しかし、大きなものが欠落しています。

    それは、麦飯によって実際に脚気が激減しているという現実です。

    炭水化物に対するタンパク質の比率を上げると確かに脚気が治り、予防することもできるという現象が厳としてあるのです。

    兼寛の説が間違いだとしたら、ではそうした現象をもっとうまく説明する説を見つけ出そうとするのが次の一歩ではないのでしょうか。

    それが、科学の進展というものでしょう。

    さすがに、科学の歴史の長いヨーロッパの学者たちが一歩一歩学説を進めて行き、ついにビタミン学説にたどり着きます。

    脚気はある微量の物質の欠乏により起こり、その物質をビタミンB1と呼んだのでした。

    このビタミンB1はなぜかタンパク質との共存率が高く、タンパク質を多く含む食材を摂れば自然とビタミンB1を摂ることになり、兼寛の言う通り、炭水化物に対するタンパク質の比率を上げれば脚気は治ります。

    つまり、兼寛の説は、医学的な理論としては正解から外れていましたが、医療的な“処方”としては、十分有効だったことになります。

    ここに、医学と医療の役割の違いを見ることができます。

    兵士の健康管理を預かる現場の軍医としてはそれで十分だったのであり、兼寛の実績は学術的な追究のための良質な材料を提供した格好だったのですが、当時の日本の学者達、特にドイツ医学派の学者達は兼寛の説に対する批判に終始し、兼寛が提示したせっかくの材料を活用することはできませんでした。

    このドイツ医学派の中に森林太郎がいました。

    陸軍の若き軍医で、東大医学部を最年少で卒業。ドイツに留学し、コッホの研究室にも在籍しました。

    イギリス医学派の海軍軍医髙木兼寛に対して、林太郎はドイツ医学派、陸軍医務局の切り札のような役目を背負わされていたと言えます。

    ドイツ留学中にも、林太郎は日本からの便りで髙木兼寛の動向を知らされていました。

    そして、ドイツ留学を終えて日本に帰って来た林太郎。

    帰朝講演の中で、林太郎は「兵食をタンパク質の豊富な洋食にすべき」という兼寛の説に対して反論を加え、兼寛のことを当てこすって「ロウスビーフに飽くことを知らざるイギリス流の偏屈学者」と呼んでしまいます。

    おそらく、会場を埋めていたドイツ医学派の聴衆から大きな歓声と笑いが上がったことでしょう。

    林太郎としては、ドイツ医学派・陸軍医務局の切り札としての自分の立ち場を自覚していたでしょうから、聴衆に対するリップサービスの意味もあったと思います。

    しかし、この嘲笑的な集団心理がこの後のドイツ医学派の歩みを、とりわけ林太郎自身の歩みを、苦しいものにして行くのです。

    のちに髙木兼寛が南極大陸にその名が刻まれるほどの人物になるとは、誰もこの時点では想像できなかったでしょう。

    人生とは恐ろしいものであり、謙虚さは相手を敬うことでもあるけれども、何より自分を守ることでもある、ということを感じて、ひやりと身が縮む思いがします。

    晩年の髙木兼寛。散歩の途中でしょうか。
    もはや現代人には失われた明治人の“風格”を感じさせる写真
    (宮崎市役所高岡総合支所内 髙木兼寛展示コーナー写真より)

    この後もドイツ医学派vsイギリス医学派、陸軍vs海軍の対立構造は解消することなく、日清・日露の両戦争に突入して行きます。

    髙木兼寛の奮闘によっていち早く脚気問題を片づけていた海軍とは対照的に、白米至上主義のドイツ医学派が医務局を占めていた陸軍は、日清戦争で約35,000名の脚気患者、約4,000名の脚気死亡者、日露戦争で約211,600名の脚気患者、約27,800名の脚気死亡者を出します。

    信じられない数字ですが、こうした事態は避けることはできなかったのでしょうか。これは必然だったのでしょうか。

    暗澹たる気持ちにさせられます。

    後世の私達は必ずやここから何かを学び取らなければいけないでしょう。

    それが悲運の先人たちへのせめてもの弔いだと思います。

    さて、森林太郎は日清・日露の両戦争に軍医として出征します。

    脚気で次々に倒れて行く兵士を軍医として看て、何を思ったか。

    一方で森鷗外として『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』など、また乃木将軍の自刃を機に、『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『渋江抽斎』等を発表します。

    まさに文豪として確固たる地位を占めていくのですが、ここで誰でも疑問に思うでしょう。

    鷗外すなわち林太郎はそうした名作を生みながら、あの脚気問題から完全に自由だったのでしょうか。

    あれほどの惨事を、もちろん一人で引き起こしたわけではありませんが、やはりかなりの部分で責任を問われるべき林太郎は、文豪鷗外としての自分と、軍医としての自分の両方をどのように折り合いをつけていたのか。

    折しも、ヨーロッパでビタミン学説が誕生し、様々な文献の中で、Kanehiro Takaki(髙木兼寛)の業績への言及が目立って来ます。

    それを見て、林太郎の心の中にどんな思いが生じていたでしょうか。

    そういった問題意識を持って、それこそ紙背に徹するほどの眼光をもって、鷗外の数々の作品を読んで行くと、実はたくさんの謎が作品群に散りばめられていることに気付きます。

    その、点のような一つひとつの謎を線で結んで行った時、思いも寄らぬ鷗外像が現れて来ます。

    私達が普通に使う“文豪”の意味とは次元の全く異なる意味での“文豪”鷗外が現れて来ます。

    明治日本という文明史的に稀有な時代に必然だった一つの役割を、自らの運命として引き受けて、最後の遺言で完結させるまで生き抜いた林太郎・鷗外。

    今年(令和2年、2020年)は髙木兼寛没後100年だったのですが、2年後には鷗外没後100年が来ます。

    今、「鷗外学」は新しい段階へと進む時期に来ているのではないでしょうか。

    林太郎・鷗外もそれを100年の間、待っていたと思います。

    ちょうど、『雁』のヒロインお玉のように。

    (初出2020年4月 一部修正)

    晩年の森林太郎・鷗外。
    文豪としての名声、陸軍軍医総監という輝かしい業績とは結び付かない孤独と苦悩を感じさせる写真。
    文豪鷗外はその作品の深奥に何を秘めたのか

  • 高木兼寛という人がいた 17

    次に、「脚気をめぐる髙木兼寛とドイツ医学派の対立」の表の③白米至上主義の森林太郎について見てみます。

    森林太郎―

    夏目漱石と並び称される明治・大正期の文豪森鷗外。和・漢・洋の古今の文芸に通じ、格調高い文体、豊かな学識、深い人間理解で、『舞姫』『阿部一族』『澁江抽斎』等、数多くの名作を残し、後世の文学者や思想家に大きな影響を与えて来ました。その影響は今なお様々な形で続いていると言っていいと思います。

    一方、森林太郎は陸軍の軍医だったのであり、脚気問題に関してこれまた決して小さくない役割を担っています。

    陸軍医務局の切り札としてドイツに留学し、帰国後、海軍の髙木兼寛の対抗馬として、兼寛の脚気栄養バランス説に対して白米至上主義を打ち出しました。しかし、日清・日露戦争で陸軍兵士のおびただしい数の脚気犠牲者を目の当たりにします。

    のちに文豪“森鷗外”となって行くほどの知性と感受性をもった森林太郎が、こうした事態に何も感じなかったとは考えられず、そういった眼で森鷗外の数々の作品を見て行った時、思いもよらぬ鷗外像が現れて来ました。

    私は、10年以上前に髙木兼寛という郷土の偉人について初めて知り、その業績と人物に驚嘆。このブログのシリーズを書き始めたのですが、その時に、意外にもあの森鷗外が脚気問題に関係していることを知りました。髙木兼寛についてこのブログを書き継いでいる間も、鷗外のことを並行してずっと追い続けて来ました。

    振り返ると、私の中で森鷗外像が10年という時間の経過とともに変わって行き、正直なところ、今となっては最初の頃のイメージとは完全に変わってしまっていることに、しみじみと思うところがあります。これほどのイメージの変容は他の作家ではあまり経験したことがありません。

    もちろん、これからも変わっていく可能性はありますが、今現在の私の森林太郎・鷗外像と、そうした林太郎・鷗外像がどのようにして私の中で醸成されて行ったかについて、お伝えして行きたいと思います。

    話が長くなりそうなので、先に結論めいたことをいくつか記します。

    ○鷗外の文学に現れる様々な謎は、脚気問題を抜きにしては理解できないこと。それは、鷗外最大の謎である「遺言」についても同じ。

    ○鷗外没後100年を過ぎた今、ようやく鷗外理解の機が熟したのであり、鷗外もそれを待っていたこと。

    ○そして兼寛と同様、鷗外もまた、国を想うサムライだった・・・

    髙木兼寛批判の急先鋒だった森林太郎に対して、このような判断をするのはどうか、と思われる方もおられるでしょう。私も当初はそうだったのです。しかし、林太郎・鷗外について深く調べて行くうちに、私の鷗外理解の深化の過程で何度かのターニングポイントがあり、認識が改まって行きました。

    このブログが終わる頃、私が体験した鷗外像変容と同じような体験を新たにされる方が出て来られるだろうと思います。

    これから「第2章 森林太郎・鷗外の点と線」と題して、林太郎・鷗外の歩みを追って行きたいと思います。

    晩年の森林太郎・鷗外

    文豪としての名声、また陸軍軍医トップである軍医総監という輝かしい業績とは結び付かない、苦悩と孤独を感じさせる写真

    そして鷗外の作品全体に渡って散りばめられた数々の謎

    それら点と点を線で結んでいった時、どんな鷗外像が現れるのか。文豪鷗外はその作品の深奥に何を秘めたのか―

  • 高木兼寛という人がいた 16

    髙木兼寛についていろいろ調べていく中で、東京慈恵会医科大学名誉教授の松田誠氏の一連の文章から多くのことを学んでいますが、その中に『髙木兼寛とビタミン』という文章があります(インターネットで見ることができます)。初めてこの文章を読んだときの鮮烈な感動は今も記憶に残っています。ビタミン発見に至る過程がわかりやすく書かれていて、少年時代に科学の物語を読んで素直に感動した時の、知的な興奮というものを再び味わった思いがしました。

    この『髙木兼寛とビタミン』の文章の他にも、松田氏には『髙木兼寛の脚気栄養説が国際的に早くから認められた事情』『髙木兼寛の脚気の研究と現代ビタミン学』『脚気病原因の研究史―ビタミン欠乏症が発見、認定されるまで―』などの文章があり、大変参考になりました。それらの文章および他の資料を交えて、ビタミン発見へ至る展開を下記のようにまとめてみました。

    ここには科学の進展の典型的な例があります。先行する者の説を確認し、一部の変数を変えて新たな実験をし、その結果をもとに先行者の説を修正し科学誌に発表する。それをまた次の者が同じような取り組みをして更に新しい説を生み出し、一歩一歩真理へ肉薄して行く。

    先行者の説にちょっとでも誤りがあれば全てを否定し去るというような“全か無か”の態度ではなく、誤りを修正し改良した説を公表する。ここまでは確実だ、という範囲を徐々に広げて行く。そして壁にぶち当たった時、一種の跳躍が行われて全く新しい概念が生まれ、それがブレイクスルーとなって新しい段階へと進んで行く・・・

    Funkの命名によるビタミンも、これは命名の傑作であって、命にかかわる(vital)アミン(amine)なるものが存在するとすれば、脚気に限らずこれまで難病・奇病とされ原因がわからなかった病気も、何らかのビタミン的なるものの欠乏ではないか?という視点も可能となり、細菌学とはまた違った、全く新しい分野が一挙に開けたのです。

    このようにして未踏の地が開拓されて行くのですが、ひるがえって当時の日本の医学界を見ると、兼寛の説に対する批判に終始し、足が一歩も前へ出ていないことに愕然とします。輸入した既存の西洋医学の中にとどまり、兼寛による脚気根絶という新しい現象を前にしても、「学理がない」と言うだけで、自らその学理を追究することはしませんでした。

    当時、学理とは何か権威をもって既成のものとして西洋からやって来るもので、自ら探求するものではなかったのでしょう。そう考えると、自然科学の分野で毎年のようにノーベル賞を輩出している現代の日本は、随分遠くまで来たわけで、すごいことです。

    未踏の地に足を踏み出すことはいつの時代でも不安がつきまといます。ビタミン学を開拓していったヨーロッパの学者達も、細菌学全盛の時代にあって、何度も引き返そうと思ったことでしょう。そんな時、兼寛の行った壮大な実験航海と兵食改革による脚気激減の実績は、学者達にとってどれほど勇気づけるものだったでしょう。

    栄養と病気の関係については昔から言われていたことでしたが、明確な意図をもって実験を行い、その結果をデータとして科学誌に掲載したのは兼寛が初めてでした。これにより、栄養と病気の関係が科学的議論の俎上にのぼったのです。

    兼寛はビタミンそのものを発見したわけではなかったけれども、このようにビタミン発見へと至る潮流を創り出す上で、非常に大きなインパクトを与えました。その意味で兼寛を「ビタミンの父」と呼ぶのは適切だと思います。あるいは、より直接的にはFunkがビタミンの父であるとすれば、兼寛は「ビタミン学の始祖」と呼んでもいいかもしれません。(初出 2017年2月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 15

    次に、脚気をめぐる髙木兼寛とドイツ医学派の対立をまとめた表中の②の大沢謙二による批判を見てみます。

    兼寛は「脚気は栄養バランスの異常から生じる。具体的にはタンパク質に比して炭水化物を異常に摂り過ぎると脚気になる。窒素と炭素の比率に置き換えると、1:15を大きく逸脱すると脚気になる」と主張します(窒素はタンパク質にのみ含まれるのでこのように置き換えることができます)。

    これに対し、大沢は、兼寛は各栄養素の摂取前の比率しか見ていないが、吸収率を見ないとおかしいのではないか。例えば、兼寛は白米よりも麦飯を勧めるが、麦の消化吸収は白米よりも劣っているので、麦と白米のタンパク質の吸収率を考慮すれば白米のタンパク質の方が体内に吸収される量が多くなる。それはタンパク質を重視し麦飯を勧める兼寛自身の説に矛盾する、と言って批判しました。

    これは非常に鋭い批判です。兼寛もこの批判に関してはかなりショックを受けたでしょう。そして、もし大沢が批判にとどまらずに、更に探求を推し進めていたら、炭水化物でもタンパク質でもない、何か未知なる物質が存在するはずだ、という予測にたどり着いていたかもしれません。しかし、残念ながら、大沢は兼寛の説の批判にとどまり、それを修正・発展させるという道には進みませんでした。それを行ったのはヨーロッパの学者達でした。

    兼寛は、こうしたドイツ医学派からの批判や無視に苦しみ悩みながらも、海軍での兵食改革を推し進め、脚気撲滅の実績を積み上げて行きます。何百という海軍の脚気患者が兼寛の考案した食事献立で日々快方に向かい、快癒して軍医である兼寛に対して感謝を述べるその一つ一つのケースが、兼寛にとっての慰めであったでしょうし、自信の源でもあったでしょう。

    このように、海軍においては兼寛の主張に沿った兵食改革により、脚気患者や脚気死亡者が劇的に減少したのですが、ドイツ医学派が占める陸軍医務局は兵食改革を行うわけでもなく、学者達も兼寛の説を修正・発展させるわけでもなく、兼寛の説の不備を突くばかりでした。

    ドイツ医学派の批判は、兼寛の説には“学理がない”、ということでした。なぜ、窒素と炭素の比率が1:15を逸脱すると脚気になるのか、それを説明する学理がない、というのです。

    この「学理がない」という表現は、少し立ち止まって考えると、非常におもしろい表現だと言えます。おもしろいと言う意味は、当時の日本の科学者たちの立ち位置や指向を表しているという点で興味を引くという意味です。

    兼寛は、統計の分析、患者の診察、兵士の食事の観察などから、脚気栄養バランス説に至り、実験航海や兵食改革を通してそれを確認し、窒素と炭素の比率1:15という説を導き出します。そして実際に脚気患者を激減させて行きます。

    これは驚くべきことであって、兵士の健康管理を預かる現場の軍医としては、必要にして十分な働きです。称賛されこそすれ、何ら批判されるような筋合いのものではありません。

    そして、こうした驚嘆すべき現象を前にして、その背後にある学理を探求することは、それこそ学者の仕事ではないでしょうか。「学理がない」と言って、現場で実績を出している軍医を批判することは、学理追究という学者としての本分を当時の学者達はどうとらえていたのか、ということです。

    「学理がない」というのは、もっと詳しく言うと「当時の日本が受け入れつつあった西洋医学の体系の中に、この兼寛の説の根拠となる学理がない」ということでしょう。既存の体系の中にはない。それはつまり、兼寛が示した脚気激減の現象は世界初の現象だったということです。

    そういう場合、現代の日本の科学者であれば、ここには何か新しいものがある、新しい鉱脈がある、ということでその原理の解明に向かうでしょう。しかし、当時の日本では、新しい現象を見ても、それを説明する学理がないと言って、その現象そのものを否定する、あるいは無視する、という方向に動いたのです。

    これは結局、当時の日本が、西洋医学を輸入することに精一杯で、既存の西洋医学の体系を何か絶対的なもの、確固として動かすべからざるもの、と見なす傾向があった事から来ているのでしょう。何かを受容する場合は、そのように対象を絶対視した方が受容の度合いも大きいのは確かです。その意味では、文明開化時の日本は非常に優秀な学習者だったと言えます。

    しかし、兼寛が提示した現象は、既存の体系の中にはなく、従って学習の対象ではなく、未知の学理をこれから探求すべき新しい現象だったのです。

    今学習し受け入れつつある既存の西洋医学の体系では説明できない新しい現象。それをどう扱えばよいのか。当時の日本の学者達の手に余った、ということも兼寛の説が当時の日本の医学界に受け入れられなかった理由の一つと言えるかもしれません。

    明治開化期の日本は“科学”は輸入したけれども、“科学すること”を自ら体得していた学者は極めてまれだったでしょう。兼寛はその希少な一人であり、時代よりも先行していたがゆえの苦悩だったと思います。

    兼寛が示した兵食改革による死病脚気(西洋ではberi-beriと呼ぶ)の根絶という世界初の現象は、日本ではなく、ヨーロッパで本格的に解明が進みます。科学とはこのようにして進展するのだという見本のような、学者達の見事なリレーによって、ビタミン学の肥沃な分野が立ち現れて来ます。兼寛たちの時代より300年も前から自然科学展開のトレーニングをして来たヨーロッパ。さすがです。ただ、その展開の始点に日本の髙木兼寛がいることは、誇っていいことでしょう。(初出 2016年12月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 14

    この表は脚気をめぐる髙木兼寛とドイツ医学派の対立を簡単にまとめたものです。表中のドイツ医学派①、②、③についてもう少し見て行こうと思います。

    ①の脚気細菌説について

    兼寛とドイツ医学派が脚気をめぐって論争をしていたこの時期は、ヨーロッパでは細菌学がちょうど隆盛期を迎えていて、ドイツのコッホやフランスのパスツールが華々しい活躍をしていました。

    そのコッホを生んだドイツ医学を官学として採用した当時の日本の医学界が、難病脚気の原因は細菌ではないかと想定するのは、時代の趨勢からして無理からぬことだったでしょう。しかも、東大医学部のドイツ人教師ベルツや京都療病院のドイツ人医師ショイベ等が脚気細菌説、脚気伝染病説を唱えていたこともあり、多くの日本の医学関係者が脚気細菌説に傾いていました。

    しかし、冷静に見てみると、この議論自体には脚気の原因が細菌であるという科学的な根拠はないことがわかります。細菌学が当時世界的に隆盛期を迎えていたことや、コッホを生んだドイツ医学を日本が官学として採用したことや、ドイツ人の先生たちが脚気細菌説を唱えていたこと。こうしたことだけでは、当然ながら、脚気の原因が細菌であることを示す科学的な根拠とは言えません。

    兼寛のすごいところは、こうした時代の趨勢に流されず、データの分析、脚気患者の診察、兵士たちの食事の観察等から、全く違う推論を展開したことです。ここには一個の独立した、“剛毅な”と言ってよい精神があります。そして自ら導き出した結論を基に、「失敗したら切腹」という覚悟を持って、国家的規模の壮大な実験航海を行ったのでした。

    ドイツ医学派は顕微鏡と試験管を使って研究室で病原を追究して行きますが、脚気患者の体をいくら顕微鏡を使って検査してもいつも空振りに終わりました。顕微鏡を使うこと自体は、病原追究のためには必要なことです。しかし、患者の体内について調べるということは、その時点で一つの仮説を無意識のうちに採用していなかったでしょうか。

    すなわち、「患者の体内に何か通常とは異なるものが“有る”のではないか」という仮説。この第一歩目が既に間違っている、ということにはなかなか思い至らなかったでしょう。

    というのは、現代の私達にはもうわかっていることですが、何か有害なものが“有る”から起こる病気もあれば、必須なものが“ない”ことから起こる病気もあり、脚気は後者だったからです。しかも、この時点では必須なものが何なのかわかっていない。そういうものが存在することすら誰も知らない。

    存在することさえわかっていないものが、そこに“ない”ことから生じる病気・・・これはめまいのするような話です。患者の体内を顕微鏡で調べても、常に空振りに終わっていた理由がそこにあります。探しようがない、です。

    兼寛は全く違うアプローチをしました。統計的データの徹底的な分析により、言わば、外側から問題の在りかを絞り込んでいく方法で、患者の体内ではなく、食物、その栄養のバランスに問題があることを突き止めました。問題の在りかさえわかってしまえば、その後は顕微鏡などを使って精査して行けばよいので、そのレールの延長上にビタミンの発見があります。ドイツ医学派は、何か有害な有るもの(細菌)、それの人体への侵入、というように問題の領域を安易に限定してしまったと言えます。

    ドイツ医学派の中にも、兼寛による海軍での脚気激減の実績を見て、また、兼寛の先入観のない、道理にかなった推論に触れて、脚気栄養バランス説に賛同する者もいたでしょう。しかし、“官学”たるドイツ医学派としての立場上、表だってイギリス医学派の兼寛への賛同を表明することは難しかったかもしれません。

    また、強固に脚気細菌説を信奉する学者が歴代の東大医学部の学長として君臨していたその下で、果たしてどれほどの自由な研究が可能だったでしょうか。

    トップが誤ることはあります。その時、下の者はどう対処して行けばいいのか。現代の私達はそれに関して多少なりとも進歩しているのでしょうか。トップが誤ることをも予め織り込み済みの体制作りとなっているのでしょうか。

    兼寛とドイツ医学派との対立は、いろいろなことを現代の私達にも問いかけていると思います。(初出 2016年10月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 13

    艦 名
    龍 驤

    筑 波
    食事内容例
    (宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナーの復元模型)

    多量の白米と粗末な副食
    窒素:炭素=1:28

    炭水化物を減らしタンパク質を重視
    窒素:炭素=1:15
    航海日数272日287日
    乗員数378人333人
    脚気患者数169人15人
    脚気による死亡者数23人0人
    多くの脚気患者と死亡者を出した『龍驤』艦と、栄養バランスに配慮することで脚気を出さなかった『筑波』艦の比較表

    明治17年(1884年)に行われた練習艦『筑波』による実験航海は見事な成功を収め、これにより日本海軍の兵食改革ははずみを得て、海軍における脚気患者数、死亡者数は激減します。兼寛は『筑波』の実験航海についてまとめた論文を、翌明治18年(1885年)3月に『大日本私立衛生会雑誌』に発表します。脚気は栄養バランスの異常により生じ、その栄養バランスへの適切な配慮によって脚気を予防し、治すことができる、と結論づけた論文でした。

    ところが、その『大日本私立衛生会雑誌』の翌月号に、今度は東大医学部の緒方正規の論文が載り、その内容は、なんと、緒方が“脚気病菌”を発見したというものでした。緒方は大学の講堂で大演説会を開き、兼寛の説を批判し、脚気は細菌によるものだと主張。この演説会に一般聴衆として参加していた兼寛は、緒方の演説の後に演壇に立ち、『龍驤』艦と『筑波』艦の例を出して、脚気は栄養バランスによるものだという自説を力説。すると今度は、陸軍の軍医監である石黒忠悳(ただのり)が演壇に立ち、自分も脚気ばい菌説であると述べ、緒方の応援演説をしたのでした。

    緒方の“脚気病菌”発見はすぐに“官報”にも掲載されました。また、同じ年の7月発行の『大日本私立衛生会雑誌』には、東大医学部生理学教授の大沢謙二による「麦飯ノ説」という論文が掲載され、その中で大沢は、兼寛が脚気対策として麦飯を勧めているが、麦飯は米飯よりも消化が悪いので、吸収されるタンパク質は麦飯より米飯の方が多い、従ってタンパク質を重視する兼寛の説と矛盾するとして兼寛の説を批判しました。

    『筑波』の実験航海で成功を収め、海軍において脚気撲滅の実績を上げつつあった兼寛でしたが、このように東大医学部や陸軍医務局から集中攻撃を受けます。この、現代の私達から見ると異常なまでの攻撃の理由は何なのでしょうか。

    当時、政府はドイツ医学を採用していました。東大医学部や陸軍医務局は当然、ドイツ医学派でした。一方、海軍だけは歴史的経緯からイギリス医学を採用し、兼寛もイギリス留学を終えて日本に帰って来たのでした。その、イギリス医学派と言っていい髙木兼寛が、日本の国民病と言われた難病脚気に対して劇的な効果を示しつつある。“官学”たるドイツ医学派がまだ解明できていない脚気に対して、イギリス医学派の髙木が顕著な効果を示しつつある・・・そのことに対する官学側の焦りも混じった複雑な心境が、この兼寛に対する激しい攻撃を生んでいるのではないでしょうか。

    下の表は、脚気をめぐる兼寛とドイツ医学派との対立を簡単にまとめたものです。

    錚々たる顔ぶれであり、日本の近代医学の基礎を築いた、顕著な功績を持つ人たちです。それは疑いようがありません。しかし、こと脚気に関しては、その後の歴史が証明するように、ドイツ医学派は大きく的を外れていたのであり、兼寛の側からビタミン学が発生するのです。

    ドイツ医学派は、兼寛を批判することに終始し、脚気患者を実際に治すことはついに出来ませんでした。その間、兼寛は、年間1000人を超えていた海軍の脚気患者をゼロにし、年間30人から50人いた海軍の脚気死亡者をゼロにしたのでした。

    医療は結果が全てである、というシンプルだけれども厳粛な原則を思う時、この事実は非常に重いのではないでしょうか。

    次回以降で、上の表の①②③についてもう少し見て行きたいと思います。(初出 2016年8月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 12

    明治17年(1884年)11月16日、練習艦『筑波』が太平洋横断の大航海を終えて東京湾に戻って来ました。前年に多くの脚気患者、死亡者を出した『龍驤(りゅうじょう)』との比較は次の表の通りです。

    『龍驤』と『筑波』の比較表

    艦 名
    龍 驤

    筑 波
    食事内容例
    (宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナーの復元模型)

    多量の白米と粗末な副食



    窒素:炭素=1:28

    パン、ビスケット、牛肉のステーキ、大豆の五目煮、牛乳等(炭水化物を減らしタンパク質を重視)
    窒素:炭素=1:15
    航海日数272日287日
    乗員数378人333人
    脚気患者数169人15人
    脚気による死亡者数23人0人

    『筑波』の脚気患者は15人で、『龍驤』の10分の1以下。死亡者は0でした。15人の脚気患者について詳しく報告を聞くと、肉や牛乳を嫌って口にしない者たちでした。米飯に慣れていてパンを捨てる者もいるということでした。

    脚気対策には洋食がいいというのが兼寛の確信でしたが、洋食を嫌ってそれを口にしなければ意味がありません。パンこそが至上の主食であり、白米は脚気の発生を促すと考える兼寛は、パンの原料は麦なので主食を米と麦の混合にしたらどうか、と提案します。兼寛の兵食改革の効果に感嘆していた川村海軍卿はその提案を受け入れ、全海軍に通達し、“麦飯”が供給されるようになりました。

    こうした海軍における一連の兵食改革の結果が次の表及びグラフです。

    明11年明12年明13年明14年明15年明16年明17年明18年明19年明20年明21年
    脚気患者数1485197817251163192912367184100
    死亡者数3257273051490000
    明治17年(1884年)に兵食改革が開始された

    上のような、海軍における脚気患者数と死亡者数の激減のデータを前にして、海軍が断行した兵食改革が脚気減少に何らかの影響を与えている、と見るのが素直な見方でしょう。ここには何もない、と見る方が難しいでしょう。しかし、陸軍医務中枢部や東大医学部の一部はこれを“偶然であり、因果関係はない”と断定。真正面からとらえようとしない者もいました。

    結局、陸軍は、海軍のこうした脚気激減の現実があるにもかかわらず、みずから兵食改革を断行できずに、日清・日露戦争に臨み、脚気大惨事を引き起こしてしまいます。それは陸軍自身が「古今東西の戦疫記録中ほとんど類例を見ざる」と評するほどの惨事でした。(日清では陸軍の脚気患者は34,783名、脚気による死亡者は3,944名。日露では陸軍の脚気患者は211,600余名、脚気による死亡者は27,800余名。一方海軍は、日清での脚気患者は34名、死亡1名。日露では脚気患者は軽症者が若干名、死亡0)

    すぐには信じられない数字であり、日清と日露との間には10年という年月があるのに、何も学習することがなかったのでしょうか。また、同じ日本の軍隊で、陸軍と海軍の間でこれほどの違いがあるというのは、国としてどうなのでしょうか。それらは誰もが自然に持つ疑問でしょう。

    そういった疑問を突き詰めて行くと、次の問いに行き着きます。すなわち、なぜ、陸軍医務中枢部や東大医学部は、海軍の脚気激減のデータを前にして「ここには何らかの因果関係があるのではないか?」と認められなかったのか。この問いは非常に大きな、また深いテーマになり得ると思います。そして、いろいろな教訓を引き出すことのできる研究対象となり得ると思います。

    ドイツ医学派対イギリス医学派という党派性の問題、医学と医療の役割の違い、科学の受容に精一杯だった当時の日本の“科学マインド”の成熟度、政策決定を行う中枢部と現場との関係のあり方、官や“お上”に対する当時の日本人の心性、一つの党派が官・学・軍を独占することの功罪、・・・ そうした様々な問題に波及して行く可能性をもった研究テーマだと思います。

    このブログは、私達の郷土が生んだ偉人、髙木兼寛の功績を追いかけようとして始まったのですが、とても大きな、困難な山が現れて来てしまいました。その山を前にして、兼寛自身もその生涯の中で大変苦しみ悩んだはずです。世界的な業績を達成しながら、自分の国で認められずに、ほとんど孤軍奮闘と言ってよい兼寛でした。

    このブログでは、このあと、兼寛に対するドイツ医学派からの集中的な批判を検証したいと思います。また、国内とは対照的に海外で次第に高まる兼寛の評価を私達は見るでしょう。そして最後は文豪森鷗外の謎に、少し、踏み込みたいと思います。(初出 2016年5月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 11

    練習艦『筑波』。吉村昭『白い航跡』(講談社文庫)の表紙に掲載。多くの人が注視する中、太平洋横断の大航海へ出た

    『筑波』の食事を復元した模型。パン、ビスケット、牛肉のステーキ、大豆の五目煮、牛乳、など。脚気対策のため、炭水化物を減らしタンパク質を重視する兼寛の説に基づくメニュー(宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナー)

    明治17年(1884年)2月3日、日本海軍の練習艦『筑波』がニュージーランド、南米チリ、ペルー、そしてハワイを経由して日本に帰って来るという太平洋横断の大航海に出航しました。前年に乗組員378名中169名の脚気患者、23名の死亡者を出した練習艦『龍驤(りゅうじょう)』と同じ航路です。

    兼寛は脚気の原因は食物の栄養バランス、すなわち炭水化物とタンパク質の異常な比率にあると確信していたので、『筑波』のメニューも炭水化物を減らしタンパク質を重視したものに定め、それを航海中、厳格に守るよう艦長達に指示しました。艦長始め乗組員達はこの実験航海の意義を十分に理解していたので、その士気は高く、食事に関する兼寛の指示通りにすることを約束しました。

    通信機器の発達した現代であれば航海中の状況もリアルタイムで詳しく知ることができますが、この時代は寄港地から手紙を船便で送るか、電信(モールス信号等)だけです。日本で待っている兼寛の心境はいかばかりだったでしょう。

    吉村昭の小説『白い航跡』には、この時の兼寛の不安にさいなまれ悶え苦しむ様が描かれています。自分の説には十分確信は持っていたものの、実験航海が終わらないうちはどうすることも出来ません。もし、自分の説が間違っていて、『筑波』も『龍驤』と同じように多数の脚気犠牲者を出したら? 政府要人に働きかけて大蔵省の国家予算も特別に組み替えて、莫大な費用の負担を強い、天皇陛下にまで自説を言上したのにそれがもし誤りだったとしたら? 兼寛は夜も眼が冴えて眠れず、眠りに落ちても夢を連続して見ました。

    『筑波』の艦内いたるところに脚気患者が寝ていて、死者を白い布に巻いて海中に水葬するシーンの夢。「こんな食量表など何の役にも立たぬ。かえって患者が多くなるばかりだ!」と艦長が激怒し、兼寛が与えた食量表を怒りに満ちて破り捨てる夢。脚気のために皆が倒れ、航行に従事できる者もいなくなって、『筑波』が洋上を幽霊船のように漂っている夢・・・

    兼寛は食欲が衰え、痩せて頬がこけ、眼はうつろになりました。

    『筑波』は寄港地のニュージーランド及び南米チリからその都度、報告書を送って来て、それによればそこまでは順調に航海は進んでいるようでした。しかし、あの『龍驤』もそこまでは問題はなかったのです。『龍驤』が戦慄すべき数の脚気患者と死亡者を出したのは、南米からハワイへ至る果てしなく続くような太平洋の航海中でした。『筑波』はこの“魔の海域”を乗り切れるかどうか。

    この年、明治17年(1884年)の秋が日増しに深まって来ました。

    10月9日夕刻、川村海軍卿から使いが来て、兼寛は川村のもとへ向かいます。『筑波』がチリからの航海を経てハワイに着いたという報告があったとのこと。川村は『筑波』の艦長からの電信文を持っていました。(ここからは吉村昭の『白い航跡』からそのまま抜き書きしましょう)

    川村は、自分の前におかれた電信紙を手にした。

    近寄った兼寛は、それを受取り、電信文に視線を据えた。電信紙には、

    「ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ」

    という文字が記されていた。

    電信紙を持つかれの手が、激しくふるえはじめた。病者一人もなし・・・、かれは胸の中でつぶやいた。安心あれ、という片仮名文字の文章に、不意に咽喉もとに熱いものがつきあげてきた。

    通信文の文字が涙でぼやけたが、かれはその文字を一字ずつ眼で追いながら立っていた。歯をくいしばり、嗚咽(おえつ)がもれるのをこらえていた。

    川村の前では必死に堪えていた兼寛でしたが、川村の部屋を出て自室にもどった彼は“ビヤウシヤイチニンモナシ”と胸につぶやき、ついに堪えきれずに嗚咽したのでした。

    海軍省内も『筑波』艦長からの脚気患者一人もなしという電文に沸き立ちました。『龍驤』と同じように『筑波』でも悲惨な事態が起きると予測していたからでした。

    この“ビヤウシヤ 一ニンモナシ アンシンアレ”に兼寛が嗚咽するシーンは、兼寛の人生の中のクライマックスだったでしょう。脚気をどうにかしたいの一心で研究を重ね、栄養バランスに原因があることを確信。その確信を兵食改革に結びつけるために上司や関係機関、政府要人に粘り強く交渉し、国家的規模の実験航海を実現させ、その結果を待つ間の想像を絶するプレッシャー、考えただけでも逃げ出したくなるようなプレッシャーに耐えた。後年、若い軍医が兼寛に「もしあの時筑波艦内に脚気患者が発生していたら、その時はどうなさるおつもりだったのですか」と問うたところ、彼は即座に「その時は切腹してお詫びするつもりであった」と答えたそうです。ほんの10何年か前までは江戸時代だったのですから、まだこの頃は武士の気概が十分に残っていたのでしょう。

    そして、これは兼寛の人生にとってのクライマックスであったと同時に、世界の医学史の中でビタミン学がうぶ声を上げた瞬間でもありました。栄養バランスによって生じる死病があり、それはまた栄養への配慮によって予防しかつ治すことができる、ということを一国の海軍が国家予算を使って実験し証明したのです。

    そのインパクトは大きく、細菌学全盛の時代にあって、全く発想法の変更を迫るものでした。病原を患者の体内に探すのではなく、食物の栄養と病気の関係に光を当てることを要求するものであり、のちにビタミン学へと発展する潮流を創り出したのです。

    このように、『筑波』の実験航海はまことにあっ晴れな壮挙だったと言えるのですが、歴史はそう単純なものではありませんでした。この『筑波』の実験航海に対する日本海軍と陸軍の反応は全く対照的でした。そしてそれがそのまま日清・日露戦争時の脚気惨事へとつながって行きます。(初出 2016年3月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 10

    宮崎市役所高岡総合支所の髙木兼寛展示コーナーの一画に据えられた展示ケース。ケースの中に当時の海軍の練習艦における食事の再現モデルが展示されている。

    朝鮮での壬午(じんご)事変の際の艦船派遣と、練習艦『龍驤(りゅうじょう)』の太平洋遠洋航海は、多くの脚気患者と死亡者を出して日本海軍を震撼させた事件でした。

    脚気問題の解決のためには兵食改革が急務であることを確信していた兼寛は、政府の要人にあう度に兵食を洋食に替えるべきだという自説を強く訴えて行きます。前内務卿の伊藤博文にも再三このことについて嘆願していたのですが、伊藤は、「君がそれほどまでに言うなら、陛下に考えていることをすべて言上したらいい。陛下も、常日頃から脚気についてはご心配されている」と言って、兼寛のために陛下に拝謁を賜る機会を設けてくれたのです。

    当時、天皇家でも脚気におかされることが多く、明治天皇ご自身や皇后も脚気に罹患されたことがあり、また、数年前には和宮親子(かずのみやちかこ)内親王が脚気のために亡くなられていました。このようにご自身も脚気に悩まされていた明治天皇は、脚気が国民病となっていることを深く憂えていました。

    明治16年(1883年)11月29日、兼寛は川村海軍卿にともなわれて皇居に参上し、謁見室で明治天皇に所信を上奏します。

    海軍において脚気が猛威を振るっている事、脚気にかかって死亡した者の遺体を解剖し顕微鏡的方法で検査しても病原がわからないこと、脚気患者の食事内容を調べてみると栄養素の割合が非常にかたよっていること、一方、質の良い食事を摂っている士官たちには脚気の発生がみられないこと、ハワイなどに入港して良質の食料が手に入ると脚気の発生がなくなること、欧米では脚気が皆無であること、などを述べ、脚気の原因は食物の不適正な取り方にあると確信した旨を熱をこめて話しました。そして兵食の金銭支給制度によって食物がきわめて貧しく栄養不足におちいっていることが海軍での脚気発生の原因であり、陛下のご英断により速やかに兵食を改革して下さるよう懇願しました。

    兼寛のこの信念のこもった奏上に天皇は強く心を動かされたようでした。また、天皇の前で確信にみちた自説を奏上した兼寛の態度に、同席した川村海軍卿は、兼寛の主張どおり、兵食の金銭支給を廃止し、現物の食料で支給するという画期的な改革に踏み切る決意をします。

    こうして翌明治17年(1884年)1月、川村海軍卿は新しい食料給与概則を定めて全海軍に通達します。そこには兼寛が定めた食品がリストアップされていました。肉類、野菜、豆類、小麦粉、牛乳、塩、醤油、味噌、酢などなど。このように、どんな食品を摂るべきかという具体的な細かい点にまで兼寛はみずから関与しています。そこに兼寛の脚気撲滅に向けた本気度を見ることが出来るでしょうし、また、それぐらいの細心さがなければ脚気には対抗できないということでしょう。

    さて、この時期、次の遠洋航海の計画が持ち上がっていました。練習艦『筑波』がハワイのホノルル、ロシアのウラジオストック、朝鮮の釜山に寄港して日本に帰ってくるという計画です。この遠洋航海はさっそく兼寛の兵食改革を実地に試す良い機会と思われました。しかし、兼寛には不満でした。それは脚気患者を多数出して海軍を震撼させたあの練習艦『龍驤』の航海ルートと違っていたからです。せっかく兵食改革の効果を試す遠洋航海に出るのなら、『筑波』も『龍驤』と同じルートをたどり、同程度の日数をかけて日本に帰って来た方が比較対照の精度が上がります。

    『龍驤』はニュージーランド、南米チリ、ペルー、そしてハワイのホノルルに寄港して日本に帰るという太平洋横断の大航海ルートでした。『筑波』のルートとは日数にして2ヶ月以上の差があり、気温などの気候条件も違ってきます。兼寛は何度も川村海軍卿のもとへ足を運び、『筑波』のルートを『龍驤』と同一のものにして欲しいと懇請しました。

    これにはさすがの川村も首を縦に振りませんでした。予算が全く違ってきます。『筑波』を『龍驤』と同じルートで航海させると、5万円以上の費用がかかり、当時の海軍の年間予算が300万円だったので、これは莫大な費用でした。「既に決定したことであり、変更はできない。大蔵省が許可するわけがない」と、川村は苦り切った表情で言いました。

    兼寛はそれでも引き下がらず、海軍の将来、ひいては日本の盛衰がこの『筑波』の実験航海にかかっていること、脚気の完全な予防法が確立しなければ海軍はあってなきが如しであると言って、必死に懇願します。

    ついに川村海軍卿が折れて、自分の代理として大蔵省と交渉することを兼寛に許します。兼寛はさっそく大蔵省におもむき、松方大蔵卿と交渉。松方はそれは内閣会議で決定されるべきことで、そこで取り上げてもらうためには伊藤博文参議にお願いしてはどうか、と言います。兼寛は今度は伊藤博文のもとに向かいます。そして伊藤に『筑波』による実験航海の重要性を力説し、『筑波』のルートを『龍驤』と同一にすることを許可して欲しい旨を訴えます。先日の兼寛の天皇への奏上に好印象を持っていた伊藤は、この件を内閣会議で取り上げることに同意します。

    数日後、兼寛は川村海軍卿に呼ばれました。川村は大蔵省からの書面を手にしています。そして書面の内容を兼寛に説明しました。「本件については内閣会議で討議されるとされていたが、国家の存亡にかかわる重大事であるので、会議の同意を得る必要はないことになった。大蔵省で種々検討した結果、『筑波』の遠洋航海費は、来年度上半期の予算から特別に繰上げ支出されることに決定した」

    どういう力学が働いてこのような異例中の異例と言うべき決定が下されたのか。脚気の原因についての兼寛の強い確信、海軍そして日本の将来に対する海軍軍医としての責任感、危機感、そうしたものに発する不屈の交渉力・・・ こうした兼寛の強い思いが原動力であるのはもちろんですが、その兼寛の思いに応えた川村海軍卿、伊藤博文、大蔵省もすごかったと言うべきでしょう。そしてこの『筑波』の実験航海こそが、日本海軍から脚気を根絶し、それにより日本海軍のその後の躍進を支え、また、世界の医学史の中でビタミン学が登場するきっかけをつくるのですから、この大蔵省決定の意義はとてつもなく大きかったと言えます。

    明治17年(1884年)2月3日、期待と不安の中、運命の練習艦『筑波』が品川沖を出航しました。兼寛を始めとする海軍関係者はもちろん、明治天皇と皇族方、伊藤博文や松方大蔵卿などの政府要人、大蔵省などの政府機関、そして海軍医務局を異様なほどライバル視する陸軍医務局など、多くの人々の関心を集めて。(初出 2015年12月 一部修正)

    運命の練習艦『筑波』。明治17年2月、多くの人々の注視の中、国家予算を組み替えて脚気撲滅のため実験航海へと出航した

    脚気患者を多く出した『龍驤』の食事の復元模型。多量の白米と粗末な副食が特徴。窒素:炭素の割合が1:28

    『筑波』の食事の復元模型。パンとビスケット、牛肉のステーキ、大豆の五目煮、牛乳など。炭水化物を減らし、タンパク質を重視した兼寛の説に基づくメニュー。窒素:炭素の割合が1:15

  • 高木兼寛という人がいた 9

    太平洋への練習航海で乗組員378名中、169名の脚気患者、23名の死者を出した練習艦『龍驤』。普段は帆を張って航行するのだが、乗組員が脚気で次々に倒れたので、火力で航行しなければならなかった。そのうち火夫も脚気で倒れ、艦長以下士官がかわるがわるボイラーを焚き、辛うじてホノルルに着いた。(宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナー)

    脚気の原因は食物の栄養バランスにある、具体的にはタンパク質が極度に少なく炭水化物が過多の場合に脚気におかされる、ということを、兼寛は過去のデータの徹底的な分析、海軍病院での脚気患者の診察、水兵たちの食事の質の観察で確信します。

    病気といえば細菌、または何らかの毒によるもの、という発想がほとんどであった当時、この兼寛の“脚気の原因は食物の栄養バランス”という説は、この説に基づくその後の実績と相伴って、世界の医学史の中で非常に革命的なインパクトを与えるものであって、のちのビタミン学誕生の大きなきっかけとなるのですが、兼寛本人にその意義の重大さの自覚が当時あったかどうかはわかりません。兼寛としては、ただただ、脚気を何とかしたいの一心で、あらゆる先入観なしに、データを分析し、患者と向き合い、観察に徹した結果の確信だったと思います。

    さて、この頃、明治15年(1882年)、日本海軍を震撼させる事件が起ります。朝鮮で京城事変(壬午じんご事変)というものがあり、この時、日本の軍艦が初めて外国に出動しました。

    当時、朝鮮の王室内では革新派と保守派の対立があり、革新派は日本に、保守派は清国に接近していました。ついに両派の衝突が起こり、保守派が革新派の邸を襲い、革新派が招いていた日本人の軍事顧問ら数名を殺害、さらに日本公使館を襲撃しました。

    日本政府は在留邦人保護の目的で、日本海軍の主力軍艦5隻を現在の仁川近くの湾に派遣、清国も日本側を牽制するために当時の世界有数の巨艦3艦を派遣。同じ湾内で緊迫したにらみ合いとなります。両国艦隊の武力衝突も場合によっては予想されました。

    この時、日本の5隻の軍艦内では大変なことが起こっていました。脚気です。多数の脚気患者が発生し、艦内では患者が身を横たえ、死亡する者も出ていました。もしも清国との間で武力衝突が起きたら、戦闘に応じる人員はわずかで、日本側が全滅することは明らかでした。日本側は、このような状態にあることを清国側に気付かれないようにすることに必死でした。幸い、日本と朝鮮政府との間に条約が結ばれ、清国の軍艦は去り、日本の軍艦も仁川を離れて日本に帰って来ました。

    これは日本海軍にとって大きな衝撃でした。一大危機と言えます。いくら軍艦等の装備を充実させても、兵士が脚気で倒れて戦闘能力を発揮できなければ、全く意味をなしません。国家存亡にかかわって来ます。

    海軍病院に運び込まれた兵士たちを見て回った兼寛は、上司の戸塚海軍医務局長に自説を訴えます。食物と脚気の関係について調査・研究を行った結果、タンパク質と炭水化物の異常な比率が脚気発病の原因と確信するに至ったことを述べ、そして、兵食を洋食に切り替えることを戸塚局長に提案します。

    それに対して戸塚は難色を示します。その提案は海軍兵食制度の基本にかかわることだから、実行は非常に難しいだろう、と。金銭支給を廃止すれば、食費を貯蓄や仕送りに回している兵士たちの不満が出るおそれがあること。パンを主食とする洋食には兵士たちは慣れていないのでいやがるだろうこと。洋食は経費がかかり、海軍の予算にもかかわってくること。

    兼寛はなおも兵食改革の必要性を訴え、結局、川村海軍卿(大臣)に上申することになりました。川村海軍卿は京城事変の際の脚気多発に衝撃を受けていたので、戸塚と兼寛からの上申を受け、海軍首脳者による将官会議を開き、そこに兼寛も呼んで上申書の趣旨を説明させました。兼寛は自説を展開。将官達は強い危機感をもち、長時間の協議を続けました。

    やがて意見がまとまり、結論が下されましたが、兼寛にとっては失望させるような内容でした。「将来、兵食の金銭支給を廃し、食物そのものを与えるよう改正することを、ほぼ内定する。海軍病院において数名の脚気患者に洋食を与えて実験する。」兼寛は、兵食改革は急務であると訴えたのに、「将来」とされ、しかも「ほぼ内定」という曖昧な表現になっていました。また、洋食による実験も上申案よりはるかに規模の小さいものとなっていたのです。

    海軍省の遅々とした動きに焦燥感を抱いた兼寛は、政府部内で強い発言力を持つ人物たちに直接訴えるしかない、と思うようになります。そして実際に時の左大臣有栖川宮(ありすがわのみや)の側近を通して宮との面談を懇願し、それが認められ、宮に直接自説を披露する機会を持つことができました。海軍の兵食を洋食にすることが急務であることを申し上げ、予算の増大について大蔵卿その他の方々に何かの折に働きかけてほしい旨を宮にお願いしました。

    このように兼寛が兵食改革の必要性について焦燥感をもって海軍上層部や政府部内の有力者に働きかけていた頃、海軍を戦慄させるもう一つの事件が起きました。

    明治15年12月に太平洋に練習航海に出ていた軍艦『龍驤(りゅうじょう)』が翌明治16年9月に日本に帰って来たのですが、ここでも脚気被害が大変なことになっていました。乗組員378名中、169名が脚気におかされ、しかも23名が死亡していたのです。

    この報告を聞いた海軍の高官達はいよいよ深刻な危機感を抱くようになり、兼寛も「わが海軍は脚気のために滅亡してしまう」と、兵食改革の訴えにますます奮闘して行きます。(初出 2015年11月 一部修正)

    脚気患者を多く出した『龍驤』の食事の復元模型。多量の白米と粗末な副食が特徴。兼寛は、こうした食事が長期間続くことで脚気が発生すると説いた(宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナー)