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  • 高木兼寛という人がいた 8

    宮崎市役所高岡総合支所の髙木兼寛展示コーナーに掲げてある「穆園先生の歌」。20年以上前、穆佐小学校の5年生が作詞したもの

    髙木兼寛の刻苦勉励、イギリスへの留学、脚気撲滅への功績、等、小学生らしいすなおな言葉で讃えている

    いよいよ兼寛は本格的に脚気に取り組んで行きますが、脚気とはそもそもどんな病気なのでしょうか。

    現代の私たちにはあまりなじみのない、もう克服されてしまった、古い時代の病気というイメージしかないと思います。しかし、兼寛が活躍した明治・大正の頃は、結核と並んで日本の国民病として恐れられていて、原因も治療法もわからない難病、奇病という扱いでした。

    症状としては、まず足がだるく、疲れやすくなる。更に手足がしびれ、動悸がし、食欲不振におちいり、足がむくむ。もっと病状が進むと、歩行も困難になって視力も衰え、突然、胸が苦しくなって心臓麻痺を起こして死ぬ。短期間に死ぬので「三日坊」と呼ばれることもあったそうです。三代将軍家光、十三代家定、十四代家茂も脚気で亡くなったと言われています。

    現代医学では、脚気はビタミンB1の欠乏が原因と解明されています体内で炭水化物(糖質)をエネルギーに換える際、このビタミンB1が重要な働きをします。そのためビタミンB1が不足するとエネルギー生産がうまくできなくなり、脳にも十分なエネルギーが行かなくなり、中枢神経、末梢神経に異常が生じて様々な症状となって現れて来ます。

    車に例えれば、燃料ばかり補給しても、その燃料を爆発させてエネルギーに換える際に重要な働きをする電気系統に異常があれば車は動きませんが、ビタミンB1欠乏はちょうど車の電気系統異常を引き起こすようなものと考えたらよいでしょうか。

    ビタミンB1を多く含む食品としては豚肉、レバー、うなぎ、豆類、玄米、胚芽米、麦などです。精白米は玄米から精製する過程でビタミンB1を失ってしまうため、白米ばかり食べて副食でビタミンB1を補わないと脚気になってしまいます。ビタミンB1は摂りだめができないので、毎日補うことが大切とされています。

    兼寛たちが脚気と格闘していた頃は、もちろんビタミンの存在もビタミンの働きもまだ世界中の誰にも知られていませんでした。だから、難病、奇病と言われていて、白米を主食とする日本人に多い国民病だったのです。こうした中で、兼寛は独自の研究と熱意で海軍から脚気を駆逐し、後のビタミン発見への大きな足掛かりを作って行くことになるのです。

    髙木兼寛の生涯を描く吉村昭著『白い航跡』講談社文庫

    脚気への取り組みの中で、兼寛の前に様々な困難が立ちはだかりますが、それにたじろがず立ち向かって行くその情熱、気迫、覚悟を、吉村昭の『白い航跡』は見事に描いています。兼寛の数々の業績を単に羅列しただけでは伝わらない、兼寛の人間としての心の動きをリアルに描いています。その場の空気さえも再現する・・・小説というものの持つ素晴らしさですね。

    このブログでは、とても『白い航跡』の中身の再現はできませんが、『白い航跡』に沿って話を進めて行きます。統計的な数値も『白い航跡』で使われているものを主として参照して行きます。

    さて、イギリス留学から帰って来た頃の、兼寛が所属する海軍における脚気の猛威はすさまじく、明治11年(1878年)から海軍で行われている統計調査では次の表のような結果となっていました。

    明治11年
    (1878年)
    明治12年
    (1879年)
    明治13年
    (1880年)
    明治14年
    (1881年)
    海軍の総兵員数4,5285,0814,9564,641
    脚気患者数1,4851,9781,7251,163
    割 合32.80%38.93%34.81%25.06%
    海軍で猛威を振るう脚気

    そしてこの4年間の脚気による死亡者は146名に達していました。海軍病院で院長として毎日のように脚気患者に接している兼寛でしたが、一晩で4,5人が脚気で亡くなったこともありました。

    兼寛は何とかしなければ、の思いで過去のデータを徹底的に調査します。発病と季節の関係、患者の配属部署による違い、衣類、気温などなど。連日、おびただしい量の資料に目を通していたところ、注目すべき記録を発見します。

    それは明治8年にアメリカ、11年にオーストラリアへ練習航海が行われていたのですが、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、シドニーなどに碇泊中には脚気の発症はなく、日本に帰ろうとする航海中に脚気患者が急増していたのです。

    これは何を意味するのでしょうか。もし、脚気が伝染病であるならば、外国の港に碇泊中も患者が発生してもよいのに、それは皆無です。乗組員たちは碇泊中、交替で上陸し、洋食を口にしていました。そして、航海中はもっぱら和食に戻ります。

    「脚気は食物に関係があるのではないか」と、兼寛は思い始めます。こうして兼寛は、脚気発生状況と食事との関連に焦点をしぼって徹底した調査に取り組んで行きます。

    そして、実際に海軍病院に入院している脚気患者を見てみると、患者は水兵に限られ、士官は極めて少ないことに気付きました。兼寛は食物の質に差があるのではないかと思い、水兵達の食事を調べてみると極めて粗末でした。

    これは、当時の海軍の兵食制度にも原因があって、海軍では主食の白米は現物支給で、副食については階級によって差のある金銭支給だったのです。水兵達はそのわずかばかりの金銭を副食の購入にあてないで、貯金したり故郷への仕送りにしたりしていました。そのため、水兵達の食事は白米ばかり多くて副食の貧しいものになっていたのです。

    こうしたことから、兼寛は脚気は食事に関係があるとの確信をますます深めます。そして、脚気患者が多く出る艦船や兵舎の食物を調べると、タンパク質(肉、魚、豆など)が極めて少なく、炭水化物(白米)がはるかに多いことを突き止めます。こうして兼寛は、タンパク質が少なく、炭水化物が過多である場合に脚気におかされる、という確信をいだくことになるのです。

    ビタミンB1を知っている現代の私たちからすると、この兼寛の確信はピンポイントの正解ではないのですが、脚気細菌説、伝染病説を信奉する人がほとんどであった当時において、全く着眼点の異なる“食物の栄養バランス”に原因があることを確信する兼寛は、やはり凄いと言わざるを得ません。

    徹底的なデータ分析と医者としての本能的な察知力、言わば医療的“勘”の鋭敏さを兼寛が発揮したからだと言えます。その察知力や勘の鋭敏さも、兼寛の広くて深い学識、そして圧倒的に豊富な臨床経験に支えられてのものだったことは言うまでもありません。

    こうした確信を得た兼寛は海軍の“兵食改革”の必要性を強く感じるようになるのですが、この兵食改革の実現は並大抵のことではありませんでした。この実現には、海軍を戦慄させることになる2つの“事件”と兼寛の不屈の交渉力が必要でした。(初出 2015年9月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 7

    宮崎市高岡町の旧穆佐(むかさ)小学校のグラウンドにある髙木兼寛先生顕彰碑
    髙木兼寛顕彰会が主催する「ビタミン街道歩こう会」での一コマ。旧穆佐小グラウンドの顕彰碑を見学。毎年、髙木兼寛ゆかりの地を散策する歩こう会が開催されている。(2019年11月撮影)

    明治13年(1880年)11月、兼寛は5年の英国留学を終えて日本に帰って来ました。兼寛のイギリスでの抜群の成績は日本にも伝えられていたので、海軍医務局は喜びとともに今後の彼の活躍への期待をもって兼寛を迎えました。兼寛は31歳の若さで海軍病院の院長に任命されます。

    イギリスにおける外科・産科・内科の医師資格と外科教授の資格を得て日本に帰って来た兼寛。彼がそこに見たものは何だったでしょう。

    それは、日本の医学界が海軍を除いてドイツ医学一色に染まっていたことでした。明治の初めに、これからの日本の医学の範をドイツ医学に取ると日本政府が決めたので、ドイツ医学がいわば“官学”になっていました。当時、唯一の大学であった東京大学の医学部も当然ドイツ医学を採用し、ドイツ人の医学教授を招き、ドイツ語で授業が行われていました。

    明治維新を経て、後発国として必死な思いで西洋化を推進していた日本。医学に関しても、どこかの国をモデルとして追いかけて行くことが、医学を急速に発展させて行く近道です。それがドイツでした。

    当時のドイツはコッホに代表されるように、細菌学の分野で隆盛期を迎えていて、世界の医学界の中でも抜きん出た存在となっていました。どこか一つの国をモデルとして選ばなければならないとしたら、ドイツという選択も決して間違いではなかったと思います。

    ただ、問題は、政府がドイツ医学を採用し、いわば“官学”となったために、ドイツ医学が“官”の権威を持つようになってしまったことです。「ドイツ医学に非ざれば、医学に非ず」というような風潮が生じて来ました。

    これは、現代の私達の感覚からすると奇異な感じがします。医学も含め、科学というものは普遍的なもので、どこか一つの国のものが正で、それ以外のものは否、というものではないでしょう。

    確かに、国によってアプローチの仕方や得意分野などに違いはあるでしょう。しかし、ドイツ医学といい、イギリス医学といい、最終的には医学という大河に流入して行くもの。ドイツやイギリス本国ではお互いの国の医学上の成果を尊重し、それを取り入れ、それが更なる発展につながっていたでしょう。

    それが日本に輸入されると、まるで“宗派”の争いのようになってしまい、感情的になり、そのため純粋に科学的なものの見方が出来なくなってしまうようなのです。

    イギリスで一流の医者としての知識と技量を身に着けて帰国した兼寛が、こういう状況の日本の医学界、医療界を見た時、兼寛には自分のやらなければならない課題が見えて来ました。そして実にたくさんのことを成し遂げて行くのですが、ここでは次の4つのことを挙げるにとどめます。

    1.医学校をつくる

    当時の日本の主流であったドイツ医学は学問的な研究を重視し、研究室で試験管と顕微鏡を使って病原を追究して行くというスタイルが特徴で、基礎医学に強みがあった。

    一方、兼寛が学んだイギリスでは、臨床を重視し、いかに患者と向き合い患者を治していくか、という極めて実際的な医療が中心。机上の学問としての医学、あるいは研究室の医学ではなく、それをどう実際の患者の治療に応用して行くか、に重点を置いていた。兼寛はこうした臨床重視の学校をつくることにより、一般の人々の病気や怪我の治療ができる有用な医者をたくさん世に送り出したいと考えた。

    2.病院をつくる

    兼寛が留学したイギリスのセント・トーマス病院はイギリスで最も古くからある病院で、貧しい人を無料で受け入れる“施療(せりょう)病院”でもあった。そのための経済的支援をイギリス王室から受けていて、王室との結びつきの強い病院だった。兼寛は貧しい人を無料で診るこうした施療病院を日本にもつくりたいと思った。

    3.看護婦教育所をつくる

    セント・トーマス病院で兼寛が感銘を受けたことの一つに、病院での看護婦の見事な働きぶりがあった。医学知識を身に着け、人間性にも優れた看護婦たちが医師の手足となってかいがいしく働いている姿。それもそのはず。セント・トーマス病院内にはあのナイチンゲールが創設した看護婦養成学校があり、兼寛が留学した頃は、まだナイチンゲールは存命中で、セント・トーマス病院の看護婦たちはナイチンゲールの精神を受け継いだ女性達だった。兼寛は「医師と看護婦は車の両輪」という考えを持っていた人で、このような看護婦教育所を日本につくりたいと思った。

    4.脚気に本気で取り組む

    兼寛にとっての生涯をかけてのテーマ。イギリス留学前、海軍病院に勤務していた頃からずっと気に掛かっていた未解決の問題。イギリス留学中も頭にあった。そして、イギリスで大きなヒントを得る。それは、日本であんなに恐れられていた脚気が、イギリスでは全く見られないこと。イギリスの医師も脚気について全く知らず、関心もない。これは後に、脚気が細菌から来るものなのか、それ以外に原因があるのかを考える際に一つの大きなヒントになって行く。

    以上、兼寛の取り組みを4つ挙げましたが、そのいずれもが実現し、今日までその成果が続いています。の医学校については、成医会講習所を創設し、それは今日の東京慈恵会医科大学に発展しています。の病院については、有志共立東京病院を開設し、それは今日の東京慈恵会医科大学附属病院へ、の看護婦教育所については、有志共立東京病院看護婦教育所を開設し、それは今日の慈恵看護専門学校へとつながっています。

    これらはそれぞれにその創立とその後の展開について大変興味深い歴史、エピソードがあり、それだけで物語になりそうです。興味のある方は、講談社文庫の吉村昭著『白い航跡』や東京慈恵会医科大学の松田誠名誉教授の一連の文章を読まれることをお薦めします。松田誠名誉教授の文章はインターネットから見ることができます。

    の脚気への取り組みについて。この脚気へ取り組みを通して、兼寛はビタミン発見への道を大きく切り開いて行くことになります。そして、世界でビタミン学を学ぶ人がいる限り、髙木兼寛(Kanehiro Takaki)の名前はこれからも記憶されて行くでしょう、それほどのインパクトのある業績を成し遂げることになります。

    いよいよヤマ場に差しかかって来ました。果たしてこのブログがそのテーマの重量に耐えられるかどうか心配ですが、髙木兼寛の奮闘のほんの一部分だけでもお伝えしたいと思います。(初出 2015年7月 一部修正)

    イギリスのセント・トーマス病院の敷地内にあるナイチンゲール・ミュージアムの玄関。セント・トーマス病院内にはナイチンゲール創設による看護婦養成学校があり、兼寛が留学していた頃、ナイチンゲールはまだ存命中だった(川崎渉一郎:『高岡町出身、明治期の英傑・・・高木兼寛の足跡を辿る旅』宮崎市郡医師会会報 「醫友しののめ」145~147号 2014年)
    ナイチンゲールの胸像(同上)

  • 高木兼寛という人がいた 6

    兼寛が留学した頃のセント・トーマス病院。ロンドンの中心部に位置し、イギリスで最も古い由緒ある病院。この附属医学校で兼寛は実に多くのことを学び、ついに成績トップとなる。(川崎渉一郎:『高岡町出身、明治期の英傑・・・高木兼寛の足跡を辿る旅』宮崎市郡医師会会報 「醫友しののめ」145~147号 2014年)

    イギリス留学時代の髙木兼寛

    明治8年(1875年)、ロンドンでの留学生活が始まります。鹿児島医学校でウィリアム・ウィリスに、東京の海軍病院でウィリアム・アンダーソンに就いて医学と英語を身に着けていた兼寛は、この由緒あるセント・トーマス病院附属医学校でもすぐに頭角を現し、ついに成績トップとなります。この医学校の最高外科賞牌(はい=メダル)であるチェセルデン銀賞牌、そして医学全般の顕著な進歩と品行方正の賞として金賞牌も授与され、名実ともにこの医学校で最優秀の医学生となりました。

    今でこそ日本の科学技術の優秀性は世界に知られるところとなり、1年に3人もノーベル賞を輩出するような年も出て来るぐらいになりましたが、当時、明治維新からまだ10年前後しか経っていない時代に、世界最先端の文明国イギリスの、最も由緒ある病院の附属医学校で、東洋の“Japan”という島国から来た青年が成績トップになる、ということは現地では大変な驚きだったことでしょう。

    上の写真を提供してくださった川崎氏も「世界の海を制覇したヴィクトリア女王時代のイギリスは世界各地に植民地を持ち、アジア各地にも海軍基地を築き、そこの人民はみな女王の臣下だという意識があった。そういう時代に極東の国からイギリスへやって来た青年がイギリスの医学校のトップになった。これは大変センセーショナルな事だったに違いない」と言われていました。

    それにしても、髙木兼寛に限らず、この時代に欧米に留学した日本の青年たちは本当に優秀な人たちが多かったですよね。ただ優秀なだけでなく、新国家建設のためという大変なプレッシャーにも負けない強靭な精神力も備えていました。

    本人たちの能力の高さはもちろんですが、明治維新に至るまでの江戸期の日本の学問素養の高さもその根底にあったでしょう。だからこそ、明治維新後ほんの10年でイギリスの学校で日本人が最優秀賞を取ることもできたのだと思います。

    兼寛はこのセント・トーマス病院時代に実に多くのことを学びます。イギリスにおける外科・産科・内科の医師の資格を得、また、イギリス外科学校のフェローシップ免状も授与されました。これは、外科医の最高の栄誉とされている学位で、医学校の教授になる資格でした。つまり、兼寛は医学を学習する立場から教える立場(しかも英国で)になったのでした。

    こうした医学の資格だけでなく、兼寛はイギリスの医学界を取り巻く制度、教育、文化というものについてもその頭脳と感受性をもって大いに吸収し、日本に持ち帰ります。

    明治13年(1880年)、5年ぶりに髙木は日本に帰って来ました。ここから髙木の超人的な活躍が始まります。(初出 2015年5月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 5

    イギリス人医師ウィリアム・ウィリス。

    鹿児島に招かれ、髙木兼寛に医学と英語を伝授する。

    名医として評判の高かったイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが鹿児島に招かれ、新設された鹿児島医学校兼病院の校長兼病院長となり、髙木兼寛もそこの学生となります。医学と英語を勉強しめきめきと力をつけて行った髙木はウィリスに見いだされ、教授および手術助手として抜擢されます。名医ウィリスから実地に指導を受けたことがその後の髙木の躍進に大きく影響を与えたと言っていいでしょう。

    ところで、髙木が最初に鹿児島に来た時の先生だった石神良策は、その頃東京にいて、海軍病院の医務担当をしていました。そして髙木を海軍病院の医員として推挙した旨の手紙を髙木に送って来ます。鹿児島で充実した日々を送っていた髙木は戸惑いますが、ウィリスの後押しもあり、東京行きを決断します。

    明治5年、兼寛24歳。東京の海軍病院での勤務が始まりました。当時の日本の医学界は完全にドイツ医学になっていましたが、海軍だけは軍制の範をイギリスにとっていたので、海軍の軍医もイギリス医学を受け入れる方向にありました。そして海軍独自の教育方法によって軍医を養成すべきだということになり、海軍病院内に学校を設けます。

    そしてイギリスから学力、人柄ともに優れた医師を教官として招くことになりました。それがウィリアム・アンダーソンという若き医師で、イギリスで最も古い由緒あるセント・トーマス病院附属医学校を優秀な成績で卒業した人でした。

    東京の海軍軍医学舎(海軍軍医学校)に招かれたイギリス人医師ウィリアム・アンダーソン

    髙木兼寛を高く評価し、母校のセント・トーマス病院附属医学校への留学の推薦状を書く

    (宮崎市役所高岡総合支所髙木兼寛展示コーナー)

    このアンダーソンとともに海軍病院で勤務していた髙木は、上官の石神良策からまたもや重大な転機となる提案を受けます。

    「イギリスへ留学しないか?」髙木をイギリスに留学させることは石神にとっての悲願でした。また、アンダーソンも、医者としての技量も英語力も抜群だった髙木を推薦していました。海軍省は髙木のイギリス留学を認め、アンダーソンが母校のセント・トーマス病院に連絡を取り、髙木が入学できるように取りはからってくれ、推薦状も書いてくれました。髙木は官費留学生としてイギリスに行くことになったのです。

    留学の準備をしていた髙木にとって大変悲しい事が起きました。恩師であり上官である石神良策が急に倒れてそのまま帰らぬ人となったのです。

    この石神という人は不思議な人で、常に兼寛の一歩先を歩いていて、髙木を引き上げて新しい世界へ導く人でした。石神は髙木が初めて鹿児島に来た時の先生(蘭方医)でしたが、戊辰戦争の時も兼寛よりも早く戦場に入っていて、戦場で再会し、名医ウィリアム・ウィリスのことを兼寛におしえ、鹿児島にそのウィリスを招いて髙木がその指導を受けられるようにしたのもこの人。髙木を東京の海軍病院に呼び寄せたのも石神で、イギリス留学を実現させたのもこの人でした。また、結婚の世話もしてくれたのでした。

    石神は髙木をイギリスへ留学させるという自分の悲願を達成したことで、自分の役目は終わったと思ったのでしょうか。ここまで自分の教え子のことを思う師もすごいし、またそこまで師を本気にさせる髙木という教え子も大変な逸材だったということでしょう。

    明治8年(1875年)、27歳の兼寛はイギリスの地を踏みます。当時のイギリスはヴィクトリア女王の時代で、世界の文物の最先端を行く大英帝国の最盛期でした。その世界帝国の首都ロンドンのど真ん中にセント・トーマス病院はありました。大きな病院で、テムズ川に面し、対岸には英国国会議事堂であるウェストミンスター宮殿があり、時計台のビッグベンが見えました。5年間の留学期間中、毎日のように兼寛はビッグベンを見、その鐘の音を聞いたことでしょう。(初出 2015年3月 一部修正)

    兼寛が留学した頃のセント・トーマス病院。テムズ河畔に移転改築されたばかりで、まだ新しかった。礎石がヴィクトリア女王によって行われた。(川崎渉一郎:『高岡町出身、明治期の英傑・・・高木兼寛の足跡を辿る旅』宮崎市郡医師会会報 「醫友しののめ」145~147号 2014年)
    現在のセント・トーマス病院(同上)

  • 高木兼寛という人がいた 4

    講談社文庫の吉村昭著『白い航跡』は、髙木兼寛の生涯を描いた歴史小説ですが、幕末維新期から日露戦争後にかけての日本の医学会の状況が臨場感をもって描かれています。

    西洋医学を急速に輸入しつつあった日本医学会では、ドイツ医学vsイギリス医学、陸軍vs海軍、森鷗外vs髙木兼寛、といった対立軸があり、髙木兼寛は一方の雄として巨大な足跡を残しています。もしこの時期に髙木がいなかったら、と想像すると(歴史に“If”は禁物と言われますが)、現在の日本のあり様は大きく違うものになっていたでしょう。これが決して大げさに言っているのではないことは、この『白い航跡』を読むとわかります。なぜなら、あの時の髙木の奮闘がなければ、日清・日露戦争の結末も違っていたかもしれない・・・

    髙木兼寛は現在の宮崎市高岡町穆佐(むかさ)で薩摩藩の郷士の家に生まれ、父親は、生業としては大工の棟梁をしていました。髙木は幼い頃から向学心、知的好奇心が強く、師事した先生たちが皆感心し、自分よりも更に優れた先生に髙木を紹介して行きます。

    こうして髙木は薩摩の石神良策という蘭方医にめぐり合い、この人が生涯の恩師になるのですが、見どころのある生徒がいたら自分のところにとどめ置かずに、自分の信頼できる先生にその生徒を紹介する、というこの時代の師弟関係は素晴らしいですね。

    時代は幕末から明治維新へ。まだ二十歳前後の髙木もその激動に巻き込まれて行きます。鳥羽・伏見の戦い、それに続く奥羽戦争。髙木は薩摩軍に帯同する医者としてこれらに参加します。

    薩摩の石神良策のもとで漢方医学と西洋医学を学んでいた髙木でしたが、しかし、自分の学んで来た医術がこの戦場においては何の役にも立たないことを痛烈に思い知らされます。本格的に西洋医術を身につけた他の藩から来た医者が、兵士の体に食い込んだ弾丸を摘出する手術を直に見て、髙木は驚くと同時に自分の無力さを痛感します。

    髙木はまた、この戦争中、ウィリアム・ウィリスというイギリス人医師の名前を耳にします。神業のような手術をし、人格的にも高潔で、まさに神医というべき人…

    『白い航跡』は、この戦争の少々長く感じられる描写で始まるのですが、この時の髙木の無力感と痛烈な問題意識が、その後の髙木のあくまで現場に徹する姿勢につながって行く、ということを著者の吉村昭は強調したかったのでしょう。

    戦争が終わり、明治と改元されて、髙木は薩摩に帰って来ます。髙木は薩摩軍に医者として従軍したことが認められて、薩摩藩の学問所である開成所洋学局への入学が許可されます。ここで髙木の運命の歯車が大きく回り始めます。なんと、天下の名医として称賛の的になっていたあのイギリス人医師ウィリアム・ウィリスが鹿児島に来ることになったのです。

    ウィリスは先の戊辰戦争等での目覚ましい働きにより、新政府における日本医学界の最高指導者になることが確実視されていたのですが、これからの日本の医学の範をイギリス医学に取るかドイツ医学に取るか、を決する廟議(閣議)でドイツ医学に決まり、イギリス人のウィリスは行き場を失い、大久保利通や西郷隆盛のはからいで鹿児島に招かれることになったのです。

    日本医学が則るべき範として、イギリス医学かドイツ医学か、を決める廟議の様子が、この『白い航跡』の中に描かれていますが、ほぼイギリス医学に内定していたのが、激論の末、ドイツ医学に逆転していく様子が息詰まるような筆致で描写されています。

    この廟議で採用されなかったイギリス医学、その代表者たる名医ウィリスが薩摩に来て髙木兼寛と出会う。そして今度は髙木がイギリス医学の代表格として、のちにドイツ医学と対峙していく…何か運命的なものを感じます。

    髙木はこのあと、海軍に入り、イギリスへ留学して抜群の成績をおさめることになるのですが、次回のお話に回したいと思います。(初出 2015年1月 一部修正)

    兼寛の生地からほど近い穆佐神社。大工の棟梁だった父親が建立し、兼寛少年も良くここで遊んだという(令和7年5月撮影)

  • 高木兼寛という人がいた 3

    そもそも、私が髙木兼寛という偉人に関心を持ったのは、今年平成26年7月に宮崎市のシーガイアで開催された九社連(九州社会福祉協議会連合会)老人福祉施設協議会職員研究大会がきっかけでした。

    宮崎県老サ協(老人福祉サービス協議会)の黒木茂夫会長が、宮崎で開催される今回の九州大会で、宮崎が生んだ医療・福祉の先覚者たちを紹介するパネル展示をしてはどうか、例えば“ビタミンの父”と呼ばれている髙木兼寛や児童福祉の先覚者である石井十次を紹介してはどうか、と発案されました。

    私は今回の九州大会の準備スタッフの一員でしたので、また、髙木兼寛が私達の法人が所在する高岡の出身であることは知っていましたので、そのパネルの準備を引き受けることにしました。

    偶然にも、私達の法人の職員の中に髙木兼寛顕彰会の事務局長をしている人がいて、その方にこの話を持ちかけたところ、髙木兼寛の業績を紹介したパネルを顕彰会が持っていて、それを貸してくださるということでした。そしてそのパネルは、通常は宮崎市役所高岡総合支所のロビーの一画に常設展示されているということでした。

    私は顕彰会事務局長の岩切さんと副会長の二見さんと連絡を取り合って、高岡総合支所の常設展示コーナーでお二人に会って話をすることになりました。

    髙木兼寛展示コーナー(令和7年5月撮影)

    その時、お二人がパネルを見ながら髙木兼寛の業績について熱っぽく語ってくれたのですが、私が一番びっくりしたのは、日清・日露戦争の時の脚気(かっけ)による兵士たちのおびただしい死者の数でした。日清戦争時には4千人余り、日露戦争時には2万7千人余りが脚気で亡くなっているのです。戦死ではないのです。脚気で亡くなっているのです。しかも、海軍医だった髙木兼寛の説を受け入れた海軍では脚気による死亡はほとんどなく、髙木説を頑固に拒否した陸軍からこれほどの死者が出たということでした。

    脚気という病気がそれほど恐ろしい病気だということも知りませんでしたし、当時の陸軍と海軍との間で頑固な対立があって、それが大変な数の脚気死亡につながって行ったということを知って、何か釈然としないものを感じました。

    現代の私達は、それがビタミン不足から来る、ということを知っています。当時の髙木兼寛はまだビタミンの発見にまでは到達しなかったのですが、様々な研究と医者としての眼の確かさから麦の効用に行き着き、麦飯を兵食に採り入れたのです。つまり、そこにビタミンがあったのですね。麦飯を採り入れた海軍からは脚気は出ず、白米にこだわった陸軍から多くの脚気による犠牲者が出ました。

    こうした話を顕彰会のお二人からお聞きしたのですが、更に興味深い話として、髙木兼寛の生涯を描いた小説がある、ということも教えてもらいました。吉村昭という作家による『白い航跡』という歴史小説です。私はさっそく本屋に行き、講談社文庫から出ている上下2巻の『白い航跡』を探して買いました。これについては、またおいおいお話しできたらと思います。                   (初出 2014年10月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 2

    宮崎市高岡町小山田(おやまだ)に髙木兼寛生誕の地があります。

    小高い山のすそに宮崎交通の髙木兼寛生誕地入口のバス停

    バス停近くには髙木兼寛生誕地を示す立て看板があり、そこから小高い山を少し登っていくと、髙木兼寛を記念した「穆園(ぼくえん)ひろば」があります。この穆園ひろばはもともと、古い穆佐(むかさ)城の趾を髙木兼寛を記念する公園にするために整備したものだそうです。

    穆佐城址に整備された穆園(ぼくえん)ひろば。敷地はあまり広くありませんが、地域の方々が定期的にお掃除されているそうです。

    古い穆佐城の趣きが残る石段を登っていくと、穆園(ぼくえん)ひろばがあります。敷地はあまり広くはありませんが、髙木兼寛の銅像があり、草木が手入れされていました。地域の方々や髙木兼寛顕彰会のメンバーが定期的にお掃除されているそうです。

    公園の入口には髙木兼寛の業績を紹介した看板があり、軍医姿の肖像画が掲載されています
    穆園ひろばにある髙木兼寛の銅像。こちらはアカデミックドレス。髙木兼寛は日本で最初に博士号を授与されたうちの一人(令和7年5月撮影)

    このように、ここ高岡は髙木兼寛の生誕地であり、彼を記念する公園もあるのですが、私自身は最近まであまり関心がありませんでした。

    しかし、ひとたび関心を持つと、いろいろな事がわかり、それが更に広く深く関心を呼び起こす、といった感じです。

    これからも少しずつ髙木兼寛にまつわる話を書いていこうと思います。(初出 2014年8月 一部修正)

  • 高木兼寛という人がいた 1

    宮崎市高岡町出身で明治の日本の医学の進歩に多大な貢献をした人物がいました。髙木兼寛(たかきかねひろ)という人です。「ビタミンの父」と呼ばれていて、脚気(かっけ)の研究であの森鷗外と大論争を繰り広げた人です。

    私はこの高岡町内のある社会福祉法人で仕事をしていましたが、恥ずかしいことにあまり髙木兼寛のことは詳しくは知りませんでした。最近、この人物について少し調べることになって、いろいろ調べてみると、知れば知るほどその偉大さに驚いています。みんなもっと知らないといけないのではないか?と思うようになりました。

    私は専門的に髙木兼寛のことを研究しているわけではないので、このブログでも専門的な、また正確無比な文章を書くことはできませんが、もし、これを読んで少しでもこの人物に関心を持ってもらえるなら、と思い、これから断続的に書いていこうと思います。

    髙木兼寛という人自身が偉大なのはもちろんですが、彼の生きた明治という時代の息吹き、医学界を二分するイギリス経験主義とドイツ理論主義のせめぎ合い、文豪森鷗外の意外な側面、そして「病気を診ずして、病人を診よ」という私たち介護に携わる者にはピンとくる兼寛の言葉・・・等々、ちょっと見ただけでも何かドラマティックな展開が予想されます。

    このブログもこれからどんな風に展開していくのか予測ができません。また、毎回は髙木兼寛のことについて触れないかもしれません。私自身も勉強しながら、その時点その時点での勉強の成果、また髙木兼寛にまつわる話を少しずつ書いて行けたらと思います。(初出 2014年6月  一部修正)